三峯神社 #2

参道を進むと広い境内に出ます。
そしてその一角に「神楽殿」がありますが、広いエリアに中にポツンと置き去りにされたように控えています。

神楽殿

神楽殿 結構見た目は歴史のありそうな雰囲気が漂っています。

神楽殿
神さまのみ心をお慰め申上げるために舞(神楽)の行なわれる殿舎です。
太々神楽、または里神楽といわれるお神楽(当社では氏子滝の沢神楽連奉仕)は日本の神話を基にした舞劇で、いわゆる神楽衣装をつけ、面をかぶって笛太鼓に合わせて踊るものです。
三峯の神楽は霧の流れる境内にひびく笛と太鼓の調和よく、その巧妙な撥さばきによって彼の宮本武蔵が二刀流を開眼した(吉川英治著 小説 宮本武蔵)と伝えられるものです。
この神楽殿は明治41年5月、一の鳥居及び保存金1000円と共に東京堅川講社から奉納されました。
恒例神楽奉奏日 4月8日 5月8日
(現地案内板説明文より)

もう少し古いものかと思えましたが、意外と新しい神楽殿のようです。 そこで打算的な話として、明治41年の保存金1,000円は現在の価値に換算すると、およそ100万円です。それに神楽殿と一の鳥居を含めると一体いくら奉納したことになるのでしょうか、ここでも恐るべしは三峯講です。

祓戸 神楽殿の前に注連縄でくくられた一角があります。
「祓戸」というものです。

祓戸
祓戸とは、祓いを行なう場所で、そこで行なわれる祓をつかさどるのが祓戸神です。祓戸は古代より公的な祓の儀式の中に位置づけられていた場所で、平安時代以降も祓の行なわれる場所として古記録などにも記載されています。
6月30日・12月31日に斎行される大祓式、又、例大祭などの祭典には、この祓戸にて祓戸神に祈り祓を行い身を清めます。
人形祓の作法
○先ず氏名、住所を人形の中心に書き入れます
○次に人形で体をなでます
○最後に心中祈念を込め、息を三回吹きかけてください
(現地案内板説明文より)

ここで初めて知ったのは大祓式が年2回あるということです。今まで年末に行なわれるだけかと思っていましたが、そうではないようです。
社会的には半期決算などがあるのですから1年を2回に分ける考え方があるのは当然でしょう。したがって1年の終わりが12月の晦日なら、その半期は6月の晦日ということになります。これは大晦日が新年を迎えるための大切な日であったのと同じように、6月晦日も神に都市の前半の間の無事を感謝し、収穫までの後半を無事を祈るための物忌みの日、祓いの日と考えられたからだそうです。
そこで宮廷では昔から6月と12月の晦日の年2回「大祓」の神事が行われていたそうです。そして12月のほうを「年越し」と呼び、6月のほうを「名越し」と呼び「夏越し」とも書かれていたようです。しかしながらこの「夏越し」の祓いをするのは出雲系の神社で京都上加茂神社・下鴨神社、大阪の住吉大社等が有名なのだそうです。
そしてこの「夏越し」の祓い方法としては、先の人形祓いと茅の輪くぐりがあるようです。
人形祓いは説明にもあるとおり息を吐きかけたり撫でたりして災いの元を託した人形に陰陽師が祓いを行ってから御祓川と呼ばれる水辺に流すのです。この人形祓いは、先の京都下鴨神社や埼玉県大宮市の氷川神社の水無月祓が有名なのだそうです。意外と身近にあったのですね。
このような神事がここで行われる神聖な場所なのです。

境内散策

社殿に近づくにつれて様々な建造物が現れます。
八棟木灯台 その一つがこの「八棟木灯台」です。

八棟木灯台
安政4年(1857)建立の飾り灯台で高さ6mあります。
(現地案内板説明文より)

見事なつくりですが、これも再建、あるいは改修されたものででしょうか。余りにも美しすぎますから・・・

青銅鳥居 その先に青色の鳥居があります。文字通りの「青銅鳥居」です。

青銅鳥居
弘化2年(1845)の建立で江戸深川の堅川講中から奉納されたもの、荒川を筏で引いてきたということです。奉納者の中に初代塩原太助の名も見えます。
(現地案内板説明文より)

青銅の鳥居は【雉が岡城址の塙記念館】で訪れた埼玉県児玉町の東石清水八幡神社で見た青銅の鳥居についで2つ目です。
そのときにも記載しましたが、意外と珍しいものではなく東京市ヶ谷の市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮、江ノ島の江島神社などなどわりとポピュラーな鳥居なのですが、塩原太助奉納というところがミソでしょう。
塩原太助は、裸一貫から身を起こし大商人へと成長した三遊亭円朝の「塩原多助一代記」で有名なご存知江戸時代の豪商で、当時「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどのサクセスストーリーの持ち主なのです。
したがって、それなりの奉納が可能だったのでしょう。先の説明によると一の鳥居も同じ講中の奉納のようですから、となると神楽殿、一の鳥居、青銅鳥居、そして保存金となるわけで、堅川講中って一体・・・。

石段 そしてこの青銅鳥居の上下の石段もまた奉納されたもののようです。

石段
下の石段は嘉永2年(1849)神領三峯村の木村家が奉納したもの。上段は昭和41年東京築地市場講奉献です。
(現地案内板説明文より)

東京築地市場にも三峯講があったのですね。なかなか興味深いことですが、築地市場と三峯神社のつながりというのは・・・。
手水舎 そして青銅鳥居の先にまたまたキッチュな手水舎があります。

手水舎
先ず手を洗い口をすすいでお参りするための施設であります。この建物は間口3m・奥行2.6m余、嘉永6年(1853)の建立です。精巧な竜の彫刻で有名です
(現地案内板説明文より)

まあ、確かに竜の彫刻はこれでもかというくらい凝ったもののようです。やはりこれも改修されたのでしょう。
手水舎でこれだけ凝られたものも珍しいかもしれません。

ご神木 ご神木と社殿 そして社殿に上がる例の石段の両脇に大木が並んでいます。
そう三峯神社の「ご神木」です。

神木
境内は古木・大木に囲まれ霊気・神気に満ち溢れています。特に社殿の左右の大きな杉の木(しめ縄のある木)は鎌倉時代の武将畠山重忠公が奉献されたもので樹齢800年と推定される神木です。
神木より発する「気」は活力そのものです。
神木より気をいただき三峯山の霊気・神気により活力ある毎日をお過ごし下さい。
(現地案内板説明文より)

この三峯神社境内にあるほかの大木を先の歴史資料館で使用したのですね。そう考えると境内内にある神木がいかに巨木であるか窺えます。
ここで様々なところで関係している畠山重忠についての概略です。
畠山重忠は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人で、源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するのですが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍します。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなしました。しかし頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされました(畠山重忠の乱)。
存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された武将です。
元々は秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を領していたことから埼玉県・東京都・神奈川県をはじめ、岩手・宮城・群馬・栃木・山梨・富山・石川・長野・静岡・三重・京都など広範囲に所縁の地があるのです。埼玉の誇る武将ということでしょうか。まだ、埼玉県内の所縁の地を訪れていませんが、近いうちに訪れてみたいと思っています。
ここからいよいよ社殿です。

三峯神社社殿

拝殿 階段を上がるといきなりの極彩色の拝殿です。

拝殿の彫刻 一つ一つの彫刻、そして彩色が英知の結晶とでも云うかのような、まさにアートといっても過言ではない拝殿です。

拝殿
寛政12年(1800年)建立。昭和37年(1962年)改修。
正面に掲げた大額は有栖川宮一品親王殿下の御染筆になります。 内部の格天井には奥秩父の花木百数十種が画かれ、左右脇障子に竹林七賢人の透彫があり重厚な雰囲気を感じさせます。
(三峯神社オフィシャルサイトより)

拝殿の大額 非常に個性的な筆使いの大額です。

ここで少し重箱の隅をつついてみたくなりました。
有栖川宮とは、皇族の宮家の1つであることは云うまでもありませんが、現在は継承者がないため断絶され実際に有栖川宮家は存在しません。
この有栖川宮と聞くと2003年に起こった有栖川宮詐欺事件が比較的記憶に新しいです。これは華族・有栖川宮の祭祀継承者であると偽った男性が偽の結婚披露宴を開催、招待客から祝儀等を騙し取ったという他愛もない詐欺事件なのですが、この背景が有栖川宮家が現在はなく、祭祀継承は高松宮(当時)だったことなのです。
主犯は有栖川識仁と名乗る男で、当然ながら有栖川宮家は断絶しているため正式な後継者ではないが、本人は高松宮の私生児であると言われているとの説明から皇族であろうと皆騙されたのです。実際に私生児は皇位継承権は無いと決められているそうですが、そこまで深く知らなかったからでしょう。
騙す方も騙される方もお粗末の一言なのですが、実際その場にいると意外とコロッとだまされるかもしれませんね。

そこで重箱の隅ですが、この大額を染筆した有栖川宮一品親王殿下とは一体誰?・・・ということになるのです。
気になる名称が一品です。これは名前ではなく親王の位階のようで、品位(ほんい)と云い一品(いっぽん)から四品まであったそうです。 その中でも一品親王は、律令制において皇親(天皇と皇太子を除く皇族)に対して与えられた最も高い品位である一品を与えられた親王のことです。ただし、明治時代以降は廃止され皇族には勲等と功級のみが授与されるようになったのようです。
さてそうなると有栖川宮家の一品はといえば、有栖川宮家は初代から10代まで継承しているのですが、基本的には全て一品といってよいようです。特に2代目の良仁親王は後西天皇となられていますから・・・。 それでは一体何代目の親王なのかを判断する一つの指針として、三峯神社の拝殿が建立された寛政12年の1800年頃存在した親王をピックアップしてみます。
5代・有栖川宮職仁親王が1769年没で、8代・有栖川宮幟仁親王が1812年生まれですから、その間に該当するのは、6代・有栖川宮織仁親王:1754年から1820年、と7代・有栖川宮韶仁親王:1785年から1845年となるのです。 そして1800年となると6代織仁親王が46歳で7代韶仁親王が15歳ですから、恐らく6代・有栖川宮織仁親王だったのではないかと考えられるのです。そうするともう一つ気になるのが、何故有栖川宮家の染筆なのかということです。
三峯神社は先の説明で秩父宮所縁のとありますが、流石に秩父宮は大正・昭和の時代ですから寛政時代とは関連がありませんね。
そこで有栖川家をもう少し調べてみると、前出された5代・有栖川宮職仁親王がその由来を握っているような気がします。
5代・職仁親王は1769年に没しましたが、歌道に優れていたとともに、父から受け継いだ書道にも造詣が深く、有栖川流書道の創始者として知られているのだそうです。 こういったことから大額の染筆を依頼したことは極々自然な成り行きなのだと思われるのです。
因みにこの有栖川流書道を大成したのが8代・幟仁親王で、有名な明治時代の五箇条の御誓文は幟仁親王により有栖川流で記されているのです。そしてこの有栖川流は幟仁親王から威仁親王妃慰子、徳川實枝子、宣仁親王妃喜久子の母子3代に受け継がれ、現皇室では秋篠宮文仁親王と正仁親王妃華子が喜久子より伝授され、継承されているのだそうです。 一つの大額にも興味深い歴史が刻まれていますね。
最後に東京にある有栖川宮記念公園は、10代・威仁親王の御用地でしたが、1923年(大正12年)に有栖川宮が廃絶した後は高松宮家に継承され、1934年(昭和9年)に高松宮より東京市に下賜され公園として一般に解放されたのです。そして1975年(昭和50年)に、東京都から港区に移管され区立公園となったという歴史を持っています。

とうことで拝殿で参拝です。
拝殿 拝殿の中の中央付近には一対のオオカミの像が置かれていて、さらにその左右に矢大臣・右大臣が祀られています。

拝殿内部もまた特色ある一種の煌びやかさを放っています。

拝殿から本殿へまわります。
竹林七賢人の透彫 本殿に回る途中の拝殿に先ほど説明のあった竹林七賢人の透彫をみることができます。

本殿 本殿も同じように極彩色の精緻な彫刻が施された建造物で、文化財に指定されています。

県指定有形文化財(建造物)昭和36年3月1日指定 三峯神社本殿 1棟 付 棟札1枚 1本
所在地:秩父市三峰298番地 所有者:三峯神社
本殿は寛文元年(1661)江戸時代初期の建立で、一間社、春日造、石積の壇上に立ち、正面と両面に縁をまわし、勾欄をつけ、屋根は銅板葺、総体に木割も太く、堂々とした格調高い建造物である。
また、「寛文元年霜月廿日」の銘ある棟札が現存し、中興第六世竜誉法印が願主になって造営したことが知られるが昭和34年の解体修理の時、明暦元年(1655)の墨書銘のあるが発見されている。
なお、寛文元年建立の本殿は再建で、その前の旧本殿は、境内の東照宮の上舎として現存し、当社に残る唯一の貴重な室町時代の建造物である。
(「秩父市の文化財」秩父市教育委員会ウェブサイトより)

寛文時代の再建時には、やはりこのような美しく綺麗な本殿で多くの講中達で賑わっていたのでしょうかね。
何となく江戸の香りを感じる社殿です。

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