旧土手を下りてからは北方向に向かいます。
ここからは江戸から明治初期にかけて川口市の中心であった「川口宿」を遡るのです。 かつての川口市の中心地は、現在どのような表情を見せてくれるのでしょうか。

川口宿編

土手から見える真直ぐな道は現在は何の変哲もないただの通りに見えるのですが、ここがかつて川口町の中心で江戸時代から明治時代に掛けて賑わっていたとはまるで思えない光景です。

鎌倉橋の碑

土手を下りるとT字路の角にポケットパークがあります。
川口宿 鎌倉橋記念緑地
「鎌倉橋記念緑地」といそうで、ここには「鎌倉橋の碑」が立てられています。
鎌倉橋の碑
碑文によれば、実際の鎌倉橋はここから南へ約120メートルのあたりにあったようで、丁度、現在の南中学校の中となるのです。文字通り古の鎌倉街道に掛っていた橋で、「義経記」には、義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を発し武蔵国足立郡こ“かわぐち”を過ぎる時に徒う軍勢は八十五騎と記してあったそうです。
古の鎌倉街道が後の日光御成道に発展し、本町・金山町が当時の川口町の中心と成りえたということになるのです。

早速、ここから当時の鎌倉街道、そして日光御成道の道筋に近かったであろう現在の「本一通り」を散策してみます。
本一通り 本一通り
実に明快な名称で、“本町一丁目”の通りなので「本一通り」とは実に判りやすい名称です。
この通りと西に並行する通りが金山町との境界ですから、まさに川口町の中心中の中心地といえるでしょう。
昨今のシャッター商店街ではなく、商店が少なくまさしく住宅街になっているようで、極々普通の通りという感じです。
最初に目に付いたのは「浜田接骨鍼灸院」です。
浜田接骨鍼灸院 浜田接骨鍼灸院
見た目は新しく改築されたような建物ですが、その大きさと造りを見ると何か曰くありげなので調べてみると、現在の院長は昭和29年生まれの浜田家5代目で、この建物も明治40年のものだそうです。
古民家を上手く再生しているって感じですね。

川口市母子健康センター

早速ここで寄り道ですが、この「浜田接骨鍼灸院」のある交差点を西に2ブロックほど進むと「川口市母子健康センター」があります。
旧鋳物問屋鍋平邸
ここは元々「旧鋳物問屋鍋平邸」と呼ばれる邸宅で、明治末期、鋳物問屋鍋平邸の別邸として4代目島崎平五郎が西洋文化の風情を取り入れて建築したもので、川口鋳物産業の象徴とも言われる建造物なのです。
明治末期に和風の庭園とステンドグラスを配した和洋折衷な造りが当時の西洋文化への憧憬を偲ばせます。
旧鋳物問屋鍋平邸 旧鋳物問屋鍋平邸 旧鋳物問屋鍋平邸
かつての「鍋平」の店舗であろう写真が残されていますが、蔵造りの大層立派な建物でかなりの財をなした気配がうかがえます。
旧鋳物問屋鍋平 《「山田君の世界」より》
当時の鋳物工業の羽振りの良さを実感して、ここから本一通りに戻り、更にそのまま東に進みます。

増幸産業

すると今度は「増幸産業」と言う企業があり、その敷地の一角に「18ポンドカノン砲(復元)」が置かれています。
増幸産業 18ポンドカノン砲(復元) 18ポンドカノン砲(復元)
これは幕末の1852(嘉永5)年に、津軽藩の依頼で川口鋳物師・増田安次郎が洋式砲術家高島秋帆と協力して鋳造したものを復元したものだそうです。
この年、ロシア船が伊豆の下田港に来航し、翌年にはペリーが来航する幕末の動乱期ですから、こう言った武器の製造は非常に活発で、いわゆる戦争特需的な要素があり、その恩恵に川口の鋳物も与ったということでしょう。当時は勝海舟などが盛んに武器を発注していったようです。
本物は現在パリの軍事博物館に現存しているのだそうで、案内板には増幸産業の社長がフランスでの対面を果した記事が掲載されていました。
パリの軍事博物館での記事
因みにこちらも古写真が残されています。
増幸商店 《「山田君の世界」より》
当時は「増幸商店」と書かれていて、関連があるのかはっきりとしたことは判りませんが、看板から鋳物製品を扱っている様子は伺えます。
ここで興味深いには先の“鍋平”も、この“増幸商店”も当時は鋳物工場ではなく、鋳物を扱う問屋だったことです。当時から相当鋳物の需要が多かったことをうかがわせてくれます。
まさに江戸時代において江戸にも川口の鋳物の名声が届いていた証拠といえるでしょう。

川口宿本陣と火力発電所

文字通りすっかり横道にそれてしまったので、再び「本一通り」に戻って北上します。
浜田接骨鍼灸院から北上し直ぐの角を左に曲がると、かつての「川口宿本陣跡の門」が残されています。
川口宿本陣跡の門
街道に面していないので、知らなければ見ることもないでしょう。
そしてこの御宅は永瀬洋治・元川口市長の生家で名家の出身だったことが判ります。
ここから本一通りにもどって更に北上するのですが、左手の駐車場の奥の塀が妙にミスマッチな煉瓦塀があるので、ちょっと立ち寄ってみます。
火力発電所跡
妙な煉瓦造りの建物があり、かなり立派な建物です。
火力発電所跡
後々調べてみたらここは発電所の跡だそうで、明治44年に民間会社が川口に供給する電力より早い、明治33年に自家内に火力発電所を設置し、埼玉県内では初めて界隈に伝統を灯した拠点なのだそうです。
自宅に発電所とは驚きですが、この建物を造ったのが1857(安政4)年生まれの永瀬庄吉で、川口近代鋳物業の先駆者と言われ、川口鋳物の技術革新に力を尽くした人といわれているのです。
永瀬庄吉
そもそもは東京市芝区赤羽橋の有馬製作所から技術を習得し、蒸気機関による送風機や旋盤平削機などをを導入し、機械力による鋳造・仕上げ作業を開始したのです。 また、造型にそれまでの伝統的焼型法に対して西洋式生型法を紹介・導入し、 鋳物の大量生産を実現し、飛躍的に川口の鋳物産業を発展させた人なのです。
その後、川口町議会議員・川口鋳物同業組合長・川口町長なども歴任、川口の発展に尽力したのだそうです。
前者は江戸時代に、後者は明治時代に隆盛し、川口の町長と市長と言う立場で川口に貢献したのです。
この永瀬庄吉と永瀬洋治との関係はわかりませんが、恐るべき永瀬一族といったところかもしれません(何も関係ないということはないでしょうが、関係を知っている方がいらっしゃれば是非ともお教え願いたいものです)。

商店建築

本一通りも半分を過ぎたあたりに「きそば更科」「中西日進堂薬局」が見えます。
きそば更科 中西日進堂薬局
どちらも江戸時代以来に一般的だった“出桁造”という店舗兼住宅の商店の名残です。先の「浜田接骨鍼灸院」も同じでした。張り出した軒で商店の格を示す造りなのです。
電話番号の局番“22”や屋号の右書きなどがより時代を感じさせてくれる建物です。
きそば更科 中西日進堂薬局
そして通りも終わりかけるところに2軒並んだ建物があります。
看板建築
こちらは“出桁造”に対して関東大震災後に数多く作られた“看板建築”の商店です。
震災後の土地区画整理で道幅が広げられたのですが、その分土地の所有分が減ったことから、軒を出すと余計に減るため(公道に張り出すのは違反)、道ギリギリまに造られたものが看板建築の商店なのです。
つまり、陣容を誇る“出桁造”に対する合理的な“看板建築”という江戸時代と大正時代の対比を見ることができるのです。
このように貴重な建造物などを見られる「本一通り」でしたが、やはり現在の状況を見れば、ここがかつて川口で一番栄えていたところとは想像もできないことです。
その当時の繁栄振りを伝える一葉の写真があります。
当時の本一通り 《「山口君の世界」より》
ちょうど福田屋洋品店のところから撮影されたようで、現在ならこういった光景です。
現在の本一通り
中央の信号の代わりの警官がユニークで、確かにこれを見ればその繁栄振りも理解できるというものです。

川口宿ミニパーク

本一通りと産業道路の交差するロータリーに「川口宿ミニパーク」があります。
川口宿ミニパーク 川口宿ミニパーク
川口宿絵図の記念碑が設置されていて、さらに傍らに「川口町道路元標」があることから、かつての川口町の中心がここであったことを示しています。
川口宿絵図の記念碑 川口町道路元標
興味深いのは「鍋屋の井」の説明板で、江戸名所図会の挿絵にもなった地下水の湧き出る井戸があったとの説明です。
鍋屋の井 鍋屋の井
図会にも「世に名高し」というキャプションがあるので、江戸時代末期には既に相当有名であったようです。
そして川口にはこのような井戸がたくさんあり、その一例が明治期の川口尋常高等小学校(現本町小学校)にあった井戸で、当時は“吹き井戸”と呼ばれていたそうです。
川口尋常高等小学校の吹き井戸 川口尋常高等小学校の吹き井戸 《「”蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探し歩く”の記録、写真など 入倉伸夫」より》
川口市母子健康センター(旧鍋平邸)にも、吹き井戸の名残がありました。
旧鍋平邸の吹き井戸跡

そして当時この井戸の水を求めて進出してきた会社が「ユニオンビール」だったのです。
ユニオンビール 《「山口君の世界」より》
このユニオンビールとは明治20年愛知で設立された「日本麦酒鑛泉」で、大正12年に東京工場として当時の横曽根村字並木に進出してきたのです。現在の並木元町周辺です。
当時は「ユニオンビール」ブランドと、なんと「三ツ矢サイダー」ブランドを製造・販売していたのです。
ユニオンビール 三ツ矢シャンペンサイダー
因みにこの当時は“三ツ矢シャンペンサイダー”というネーミングで、このロゴはちょうど大正10年に新しいデザインとなったロゴラベルで、会社名が「日本麦酒鑛泉」の時代のものです。
そしてこちらの写真は昭和6年頃で、この2年後の昭和8年に当時の大日本麦酒と合併したのです。
ユニオンビール 《「山口君の世界」より》
この後、大日本麦酒は戦後解体され、サッポロビールとアサヒビールに別れ、川口の工場はそのままサッポロビール埼玉工場となり、三ツ矢サイダーはアサヒビールに継承されたのです。
大正時代から続いたサッポロビール埼玉工場の歴史も平成15年に閉鎖され、現在の「アリオ川口」と「リボンシティ」となったのです。勿論、「リボンシティ」の“リボン”は大日本麦酒~サッポロビールの頃よりある“リボンシトロン”の由来であることは言うまでも無いでしょう。
このように川口の井戸が後の産業に発展のきっかけとなったのですが、皮肉なことにビール工場の操業で井戸はかれてしまったそうです。

錫杖寺

「川口宿ミニパーク」の前の産業道路を渡りそのまま北上すると「錫杖寺」がありますが、かつては参道だったのかもしれません。
かつての参道?
その「錫杖寺」の手前の道路に橋の欄干らしきものが埋もれています。
凱旋橋跡付凱旋橋
これは「凱旋橋跡付凱旋橋之碑」で説明によると、日露戦争終結の翌年の1906(明治39)年5月13日に行われた川口町出身兵士の凱旋祝賀会で、凱旋パレードの通過点として当時ここに流れていた錫杖寺用水に架設された石造りアーチ型の凱旋橋の遺跡だそうです。
凱旋橋跡付凱旋橋
そもそも川口の鋳物業の急発展の原動力が砲弾や機械部品の製造が盛んになった日露戦争の、いわゆる戦争特需ですから、ある意味では皮肉なものです。
川口鋳物の歴史からみれば実にエポックメイキングと言えるわけで、これらの由来を記した碑は現在川口神社境内にあるのです。
凱旋橋跡付凱旋橋之碑

凱旋橋跡の後に広い参道と山門が見えます。
凱旋橋と錫杖寺 錫杖寺
並んでいる消防署の隣が本町小学校で、吹き井戸のあった小学校です。
本町小学校
風情のありそうな山門が印象的です。
錫杖寺山門
開基は717(養老元)年行基によるとの伝承で、鎌倉時代に再興され室町時代には8代将軍足利義政により整備され、末寺53寺を所有する名刹となったのです。
そして1622(元和8)年には江戸幕府2代将軍徳川秀忠の日光参社の際の休憩所となり、以降の歴代将軍に利用され、 以来、川口宿の要として発展していったのです。
歴史を誇るかのような本堂もなかなか立派です。
本堂 本堂
こちらには実に川口らしい文化財があります。埼玉県指定有形文化財(工芸品)「銅鐘」です。
埼玉県指定有形文化財(工芸品)「銅鐘」
1641(寛永18)年、時の川口宿名主である宇田川氏が、川口鋳物師の長瀬治兵衛守久に鋳造させ奉納した銅鐘で、江戸時代の川口鋳物を代表する逸品といえそうです。

さらに江戸時代の香りを色濃く残しているのが「瀧山家墓地」です。
“瀧山”といえば江戸時代末期の13代家定~15代慶喜まで使えた御年寄で、大奥の役職から言えば“上臈御年寄”に次ぐナンバー2の“御年寄”ですが、多くの“上臈御年寄”が将軍正室(御台所)と同伴して公家出身者であることから、大奥プロパーで、実務上ではナンバー1の地位です。男性で言えば老中と同じですから、その地位の高さが伺えるでしょう。
そして異説はあるものの江戸城開城とともに大奥の幕引きをしたと知られ、自身は当時自分に使えていた“仲野”という女中の実家を頼って川口に移り住んだようです。
その後、推定ながらこの“仲野”夫婦を養子として「瀧山家」を興したそうです。
現在、瀧山家の墓所には左から、仲野、瀧山、染島(瀧山の叔母)の墓石が並び、脇に瀧山の子孫の墓石があるのです。
瀧山家墓地 瀧山家墓地
これもまた幕末の貴重な歴史・文化の名残といえるでしょう。
興味深い錫杖寺で、何故キティちゃんがいるのかは定かではありませんが、川口在住の頃は「錫杖寺」の存在さえ知らなかったのですから、随分進歩したものです。
キティ石造

旧芝川編

本来なら産業道路に戻り、産業道路沿いを北西に向かうのですが、ここはちょっと寄り道をして南東に向います。
産業道路と国道122号線の交差点が“本町ロータリー”です。
本町ロータリー
この交差点を渡って旧芝川方面にむかうのですが、その前に交差点角近くの「川口市立文化財センター」に立ち寄ります。

川口市立文化財センター

川口市の歴史資料館のようなもので、以前訪れた鳩ヶ谷にある郷土資料館はここの分館です。恐らくかつてはそれぞれ川口市と鳩ヶ谷市の資料館だったのでしょう。
川口市立文化財センター
エントランスは川口らしい鋳物工場のディスプレイから始まり、階段に記されているのが明治期の最大の洪水における浸水位置と、昭和の大洪水狩野川台風の際の浸水位置が記されているのは、大雨に弱かった川口市を象徴しているようです。
鋳物工場ディスプレイ 川口の大雨跡
まずは2階に上がって入館料を支払います。
チケット
ここからは撮影禁止ですので、写真はありませんが、川口の太古からの歴史をディスプレイした展示室と、川口の産業をディスプレイした展示室に分かれています。
特に産業の展示室では、鋳物業、味噌醸造業、柿渋製造業、植木業などの川口を代表する産業の展示がなされています。
ここでは鋳物業の歴史だけピックアップしておきましょう。

パンフレットの記事からの引用です。

●川口鋳物の歴史
元和 5年(1619)長瀬次兵衛鋳造の岩淵正光寺(東京都北区)梵鐘 記録に残る最古の川口鋳物師作品(太平洋戦争にて供出)
寛永18年(1641)錫杖寺銅鐘 長瀬次兵衛守久銘(県指定有形文化財)
宝磨13年(1763)真継家より許状を受ける(永瀬洋治家文書)
天保13年(1842)岩槻藩より大砲鋳造を下命 永瀬文左衛門
弘化3年(1846)土佐藩より増田安次郎 大砲鋳造受注
安政6年(1859)高島秋帆増田安次郎に褒状(市指定文化財)
文久3年(1863)大砲設計図(市指定文化財)
明治10年(1877)学習院鉄門鋳造(国指定重要文化財)
明治10年頃 永瀬庄吉 自工場の蒸気動力化に成功
明治20年代 木型業が始まる(専門工場と木型専門職人の始まり)
明治33年(1900)永瀬庄吉 火力発電所をつくり、自工場と町内に電灯事業開始(~1903)
明治42年(1909)川口駅開業
昭和33年(1958)第3回アジア競技大会 国立競技場聖火台製作(鈴木文書氏)

といった歴史を辿ったのです。
そして、

●平成不況下の川口の鋳物
平成14年3月25日付け「朝日新聞」朝刊(埼玉版)のトツフに「鋳物生産近年で最悪 昨年川口 不況直撃、12万トン割る 最盛期は40万トン」の文字とともに、最盛期の昭和48年(1973)には鋳物組合員600社を超え、407,000tに達した年間生産量も、昨年は組合員186社、銑鉄鋳物生産量119,866tに激減しているとの記事が掲載されました。鋳物業は構造産業です。木型業等様々な業種の関連の上に成り立っています。したがって、不況のあおりは、より深刻なものがあります。

という記事が掲載されていました。
これが現在の川口を物語る姿と言えるのでしょう。
最後に鋳物製品の代名詞ともいえるダルマストーブのスマート版ともいえるストーブを見てセンターを出ることにします。
ストーブ 《パンフレットより》

市兵衛河岸

本町ロータリーを過ぎた先の小さな川である「旧芝川」を渡ったところからが、今や川口のランドマーク「エルザタワー」のある元郷です。
エルザタワー55
芝川は桶川・上尾市周辺から流れる川筋を端として見沼開拓の際に川筋が造られました。元はこちらの川筋が源流だったのですが、1965年に新芝川(芝川放水路)が造られそちらが本流となったことから、現在の青木水門から先の芝川が“旧芝川”と呼ばれているのです。
旧芝川上流 中央橋 旧芝川下流
この旧芝川沿いに見えるのが「川口鋳物工業協同組合」です。
川口鋳物工業協同組合
明治35年頃から急激に鋳物工場が増加したことから、明治38年に「川口鋳物業組合」を組織したのがはじまりで、その後、昭和19年に「埼玉県鋳物工業統制組合」、戦後の昭和22年には「川口鋳物工業協同組合」を結成し、昭和24年に現在の協同組合に移行したのだそうです。
川口鋳物業組合 《「山口君の世界」より》
現在、川口駅東口の「かわぐちCASTY」を所有しているのがこの組合なので、創立以来100年以上の歴史を持つ、まさに鋳物の街・川口をずっと見続けてきた生き証人なのです。
川口鋳物工業協同組合
因みに8月11日って「川口鋳物の日」だそうですが、ご存知でした?

そしてこの旧芝川沿いを南下したところが「キューポラのある街」のロケ地だったところで、 「キューポラのある街」では、ジュンの弟であるタカユキと友人の遊び場となっていた場所です。
映画を見る限り当時の建造物の目標となるものは橋しかないようで、映画で見られる橋としては2~3種類の橋が考えられます。
まずはこちらの細い橋で、考えられる橋としては旧芝川にかかる門樋橋が考えられます。
映画ロケ地 映画ロケ地 《youtubeより》
しかしながら昭和38年の航空写真で見る限り、この時代でもすでに片側1車線の車道橋になっているので、映画の橋とはすでに違うことが明らかです。
昭和38年の航空写真
とするとこの門樋橋のほぼ90度横にかかる橋が考えられます。
現在の橋 現在の橋
この橋のあたりは元々「市兵衛河岸」と呼ばれた海運の拠点で、川口の鋳物産業を支えた重要な河岸だったのです。
市兵衛河岸跡
しかし昭和34年芝川の水門が改修され、海運の船が通れなくなってから、この辺りの運送はトラックに切り替えられたのです。
したがって比較的映画での橋と雰囲気は似ているのですが、いかがなののでしょうか。
さらにもう一つの橋の橋桁を見ると、違う橋桁が2種類並んでいるように見えます。
映画ロケ地 《youtubeより》

これをどのように考えるか難しいところですが、これを片側2車線の橋と考えると、こちらが現在の門樋橋と言えるのかもしれません。
門樋橋 門樋橋 門樋橋
となると、こちらの太鼓橋のような橋は、一体どこなのか、と言うことになるのですが、いずれにしてもこの周辺がロケ地であることは間違いないようです。
映画ロケ地 《youtubeより》
かつてこの辺りの旧芝川は、市街地を流れるため水質が悪くかつ川口市周辺では悪臭も漂っていました。
恐らくその当時の芝川が映画に写っているのでしょう。
映画ロケ地 《youtubeより》
しかしながら平成になって「水辺再生100プラン」のモデル地域として整備されたことから、当時とは大分違った光景となっているのです。
現在の旧芝川 現在の旧芝川
その一方で川沿いに残る小さな町工場的な風景を見ると、護岸整備がされていはいながらも、そこはかとなく昭和を残しているような、そんな気分にさせてくれる旧芝川沿いなのでした。
工場群 工場群
よい意味で昭和の息吹を残すロケ地です。

2013.08.25記
(産業道路編につづく)

関連記事
スポンサーサイト


コメント

  1. pansy | -

    こんばんわ!

    川口を訪れたことはないですが、川口と云ったら映画キューポライメージが強いですね・・といっても映画見てないんですけど。

    でも日光御成道川口宿、結構古民家等いろいろ残されていて、歴史探訪が出来そうですね。

    いつもながら、薄荷脳70さんのレポートを読むと、十二分に行った気にさせられますから、ほんとに不思議です。

    ( 22:15 )

  2. 薄荷脳70 | -

    pansyさん、ありがとうございます。

    川口に在住していた頃は、市自体も歴史だ、文化だ、といったアカデミックな雰囲気は全く無かったといってよいくらい、とにかく鋳物産業がイケイケドンドンって、感じでした。
    鋳物が衰退し始めて、初めて余裕が逆に出てきたのかもしれませんね。
    少しでも臨場感感じていた大ければ幸いです^^
    ありがとうございました。

    ( 04:14 )

コメントの投稿

(コメントの編集・削除時に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)


トラックバック

Trackback URL
Trackbacks