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前編に引き続き後編ではジオサイトめぐりと秩父音頭まつりに向います。
秩父だから少しは涼しいかも、といった淡い期待も吹っ飛び、猛烈な暑さの中で限界も近づいてきているような。。。
一層のこと荒川で川遊びをしたいくらいですが、まあ、精々熱中症にならないように気をつけねばなりません。

皆野のジオサイトと祭り

前編に引き続き「水潜寺」をでてからは、そのまま県道44号線を西に向います。
気温は高いですが、テンションも高くなりドライブもかなり心地好い面持ちです。

秩父華厳の滝

水潜寺から車で10分ほどでしょうか「秩父華厳の滝」に到着です。
クルマを附近の駐車場にとめて、ここからは徒歩となりますが、僅か4~5分の距離です。
駐車場の後は“奥長瀞自然峡”となっており、荒川の支流である日野沢川でファミリーが水遊びをしています。
奥長瀞自然峡奥長瀞自然峡 奥長瀞自然峡
涼しげな光景に癒されます。

ここが滝への入口です。
滝への入口
案内板には全国で10位に選ばれました、と誇らしげな文字が躍っています。
秩父華厳の滝
しかしながら本家の華厳の滝も入っていないこのランキングは、一体何のランキングなのか気になるところです。
さらに「赤色変岩」と書かれており、本来は「赤色片岩」なのですが、まあ、こう堂々と書かれるとこれはこれで有かな、などとつい気を許してしまいます。
さらに少し先にはこんな立派な石碑が立っています。
秩父八景
幕末の頃にこの滝が八景に選定されていたようです。古の八景めぐりも面白そうですね。
秩父八景
因みにこの碑の書は、当時のの畑埼玉県知事が書かれたものだそうです。
いずれにしても一時は、皆野町の観光拠点として相当力を入れていた痕跡の残る滝のようです。

小さな吊橋を渡って川沿いを進みます。
奥長瀞自然峡 奥長瀞自然峡
より小さな華厳の滝が見え始めます。
秩父華厳の滝
そして滝の下までたどり着いた、秩父華厳の滝です。
秩父華厳の滝
落差10数メートルの小さな滝です。 水遊びをしている子供と比べると、凡その大きさがわかるでしょう。
そもそも大きさは比較にならないのですが、その形が似ていることから「秩父華厳の滝」と命名されたようです。
左が秩父、右が日光と並べてみましたが、似てる、似てない。。。 
秩父華厳の滝 日光華厳の滝
まあ、気持ちの問題でしょう。

そのマイナスイオンもたっぷりと浴び、一時の清涼感を頂いて後にするところですが、実はこれで終わりではないのです。
この秩父華厳の滝も水潜寺に続くジオサイト「秩父華厳の滝のメランジュ」なのです。 水潜寺・滝と一続きなので、ジオサイト3ヶ所目ではなく、2ヶ所目続きということです。
そこでもう一度滝を良く見ていただくと、滝の後の岩が赤い岩になっています。例の全国10位の看板でも、“赤色変岩の崖”とあったとおりですね。
で、この赤色の岩盤は「チャート」と呼ばれるものなのだそうです。
また難しい専門用語が出てきましたが、このチャートとは放散虫というプランクトンの遺骸が深海底の積もってできたもので、チャートは他の岩石と比べて以上に硬いのが特徴なのだそうです。
さらに駐車場裏手の日野沢川沿いには砂岩の小さなブロックや大きなチャートのブロックがあり、これらのブロックは海溝でばらばらになって泥岩に混ざったメランジュなのだそうです。
秩父華厳の滝のメランジュ
したがってこの滝のチャートも、東西に2km程度伸びた形のブロックの一部ということになるのだそうです。
まあ、当然ここでも判ったような、判らない、ってことになるのですが、「チャート」とう用語を覚えただけで満足しましょう。

栗谷瀬橋の蛇紋岩

ここまできたらもう後は、皆野に4つあるジオサイトを見ないわけには行かないでしょう。
一気に県道44号線を東に戻り、国神の交差点を左折し、県道37号線をそのまま東に向かい橋の袂が3ヶ所目のジオサイトです。
荒川沿いに下りると荒川上流には栗谷瀬橋を見ることができます。
栗谷瀬橋 荒川
このあたりは観光地でもないので、荒川の長閑な光景を見ることができます。
その荒川に突き出ている岩が「蛇紋岩」なのです。
蛇紋岩
こちらは独特な深い緑色をした岩石で、文字通り岩肌が蛇の皮膚のように見えることから名付けられたものです。 見た目と違い触ると意外とツルツルしています。
さらにこの岩石は水を多く含んでいるので、非常に地すべりを興し易い岩なのだそうです。

そしてもう一つの大きな特徴が、所々に見える白い部分です。
こちらの岩の後は殆どが白くなっています。
クリソタイル クリソタイル クリソタイル
この白い部分は繊維状の鉱物で、これは「クリソタイル」と呼ばれるもので、石綿の原料となるモノなのです。
石綿というとピンとこないかもしれませんが、アスベストといえば多くの方がご存知でしょう。
アスベスト公害で大変問題になり、現在ではその生産と使用は全面的に禁止されているのです。

現在では一切の使用はできない石綿ですが、何とこの石綿を日本で初めて発見したのが、誰あろう、あの平賀源内で、ここ秩父で発見したというのもヒストリックです。
平賀源内
1766(明和3)年、武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見したのだそうです。
現在の株式会社ニッチツ秩父鉱山で、元々は1600年頃にここで金や砂金が見つかったことから、江戸時代平賀源内を派遣して金を採取に行ったのでしょう。そのときに石綿を発見したというのがその経緯のようです。
地質・鉱物、そして産業、さらに歴史と、1つの岩石で色々学べるジオサイトでした。

親鼻橋の紅簾石片岩

さて最後4ヶ所目のジオサイトは「親鼻橋の紅簾石片岩」です。
栗谷瀬橋からは途中ショートカットして再び37号線に出れば、10~15分の距離でしょう。
親鼻橋の交差点手前に案内板がありますので、ここから河原に下りてみることにします。
もう少しで4時になろうとしている現在でも、結構気温は高くかなりうんざりな気分です。
しかしながら河原に下りて荒川河川敷の様子を見ると、まさに夏真っ盛りで、多くのファミリーや若い方たちが楽しんでいます。
ウォーターパーク長瀞
対岸は「ウォーターパーク長瀞」というオートキャンプ場で、ラフティングやライン下り、フィッシング、そして水遊びと、夏を満喫できる施設なのです。

ここから更に河原に降りると親鼻橋を見ることができます。
荒川と親鼻橋
そしてこの写真に写っている右手の岩が「紅簾石片岩」なのです。
全体を捉えるとこのような巨岩です。
紅簾石片岩 紅簾石片岩
“片岩”とは、とにかく地下の深いところで何らかの力を受けて再結晶したことから、雲母のような板や柱のような形に成形された岩石のことで、割れやすい特徴があるものです。
そしてこの片岩には赤、青、緑の色を持つ岩があり、ここでは赤色を多く含んだ「紅簾石」であることから、「紅簾石片岩」ということになるのです。
丁度、この割れ目の左側には赤が多く、右側には緑色が多いというのもこの辺りの特徴なのかもしれません。
紅簾石片岩などの地層
現にここにある案内板の図解ではこのような図が描かれており、詳細は良く判りませんが様々な色の岩がに覆われいるというのが理解できます。
案内板
特筆すべきことは、小藤文次郎という明治の地質学者が、1888(明治21)年に世界に先駆けて新鉱物としての紅簾石を発表したのだそうです。
小藤文次郎
日本の地質学が始まって以来の世界的業績だったのだそうです。

更にここでは珍しいものを見ることができます。
この大きな穴なのですが「ポットホール」というのだそうです。
ポットホール ポットホール
この「ポットホール」とは、河床に現れた硬い岩石を削ってつくられた円形の深い穴のことで、当然、人間や動物が掘ったわけではないのです。
何故このような穴が出来るのかといえば、これは意外と素人でも判り易いです。
河の底にある硬い岩などの表面に割れ目等の弱い部分があると、そこが水流により侵蝕にされ“くぼみ”となるのです。そしてこの“くぼみ”のなかに礫(直径2mm以上の塊で、砂よりも大きいもの)が入り込むと、河の渦流によってその礫が回転し、“くぼみ”が徐々に丸みをおびた円形の穴に削られていくわけです。 その後、川底が侵食の影響で沈下したり、その穴の場所が隆起したりすると、その穴の出来た場所は水面よりも高くなり、その穴が地表で見られるようになるのです。
これがポットホールが出来る理由なのです。
ここにあるポットホールは、今現在の荒川の川床面から10m程度上にあることから、ホールが造られてから10m大地が隆起したと考えられているのです。
ポットホールと荒川
このように長瀞では、長い年月を掛けて大地の隆起と荒川の浸食が上手い具合のバランスで保たれていることから、広い範囲で片岩=変成岩が多く見られるようになっただそうで、丁度、ここ「紅簾石片岩」から下流にかけてあの有名な岩畳を含めて名勝・天然記念物に指定されているのです。
天然記念物

今回のジオサイトは比較的判りやすかったでしょうかね。
最後にこの紅簾石片岩から親鼻橋の先を遠景すれば、秩父鉄道の走る親鼻橋河原と鉄橋を見ることが出来ます。
親鼻橋 秩父鉄橋
そして丁度鉄橋の手前辺りから秩父郡長瀞町となるのです。

秩父音頭まつり

さて今回の散策は何となく“ナショナルジオグラフィック”的になってしまいましたが、そろそろ夕方になってきましたので散策はこれにて終了し、祭りに向かいます。
まだ明るい時間帯ですが、PM5:00から開始とのことで、既に準備に余念が無いようです。
まずはここを訪れます。
県道43号線沿いにある「秩父音頭家元碑」です。
秩父音頭まつり 秩父音頭家元碑

秩父音頭は、この地方に伝わる盆踊りが元になっていて、200年の歴史があるといわれながらも、昭和初期には歌詞も踊りも卑猥そのものに堕落し、踊りは“ボウフラ踊り”、唄は“助平唄”と言われ警察も禁止していたのです。
これを再興しようと動きはじめたのが、地元の医師で俳人である「金子元春」(号は伊昔紅)でした。
金子元春
当時、元春は俳句誌「馬酔木」を出した水原秋桜子と現在の独協中・高時代の同級生であり同人で、当時の埼玉県知事とも大学時代に同窓生であったことから、秩父音頭再興も知事からの依頼を受けたものであったようです。
元春は早速、1930(昭和5)年に一般から新たに歌詞を募集し自らも作詞しました。唄は“秩父木挽き唄”で右に出るもの無しといわれた名人「吉岡儀作」に唄わせ、踊りは、元春の父である金子茅蔵が妹に踊らせて振り付けたのです。
そしてこの年の11月、明治神宮の遷座10年記念祭に招かれ「秩父法然踊り」の名称で奉納され全国の注目を浴び、翌年にはNHKから全国放送されたのです。
さらに1933(昭和8)年、帯広市で開催された全国レクレーション大会に「秩父音頭」として出場し見事1位に輝き、1950(昭和25)年の同大会では民謡部門優秀1位に選ばれたのです。
ここにおいて「秩父音頭」は、群馬の「八木節」、栃木の「日光和楽踊り」とともに、関東三大民謡の一つに数えられるようになったのです。

秩父音頭の特徴の一つはその歌詞ですが、一般公募された短い歌詞を次々と歌うところにあります。
当時の入選作の一例です。
『鳥も渡るかあの山越えて 雲のさわ立つ奥秩父』(小林倉八 作)
『花の長瀞あの岩畳 誰を待つやらおぼろ月』(伊昔紅 作)
『秋蚕しもうて麦まき終えて 秩父夜祭待つばかり』(伊昔紅 作)
これに呼応するようにお囃子は軽快な小太鼓と、華やかでありながら哀愁を帯びた笛がからみ、重厚な大太鼓が支えると言ったハーモニーを作り出しているのです。
そして振り付けは秩父の産業である養蚕や農耕の仕草を取り入れた、秩父の風土を生かした踊りなのです。

こうした「秩父音頭」は、現在、金子元春の次男である金子千侍が継いでいるのですが、長男は著名な俳人の金子兜太なのです。
金子兜太
この金子兜太に関して非常に面白いコラムがあったので、引用させてもらいます。

出世を拒絶 さすらう心(2006年9月13日)
 俳人の金子兜太(かねこ・とうた)(86)が55歳の定年を日本銀行で迎えたのは、1974年9月のことだ。最後の肩書は、係長クラスの証券局主査。同じ東大出の同期の多くが出世コースを駆け上がっていた。
 定年の直前、日銀記者クラブの時事通信キャップだった藤原作弥(ふじわら・さくや)(69)が訊ねてきた。戦後の革新俳句の雄といわれた金子だが、取材に来た記者は他にいなかった。
 藤原は中国東北部からの引き揚げ者。国境を越えた旧ソ連の戦車軍団が草原で発砲し、国民学校の級友30人の大半が命を落とした。生き残った罪悪感が消えない。「私も心の漂泊者。だから、彼のことが気になった」
    ◇
 後日談がある。四半世紀後、2人は日銀本店の副総裁室で再会した。藤原は過剰接待汚職事件で揺れた日銀の副総裁にマスコミ界から抜擢(ばってき)された。「失礼だとは思ったが、私が招いた。うっ屈した思いがある場所なのに、ひょうひょうとやって来た」
 金子の日銀人生は「漂泊」そのものだ。43年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業し、日銀に入行。すぐに海軍主計中尉としてトラック島へ。赴任した施設部では、徴用工に多数の餓死者がでた。捕虜生活を経て46年に帰国する際、こんな句を詠んだ。「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」
 従業員組合の初代事務局長に自ら手を挙げ就任した。「出世に響くぞ」。東大出の先輩から忠告されたが、餓死した徴用工たちの小さな顔が頭から離れなかった。
 「非業の死者に報いるため、内なる出世主義を拒絶する。それが自分一人(いちにん)の戦争責任の取り方」
 日銀の近代化運動の先頭に立ったが、1年後にレットパージに巻き込まれ、福島支店に飛ばされた。「クビにはならなかったが、白地の退職願を書かせられた」。神戸、長崎支店と回り、東京の本店に呼び戻されるのは60年。
 孤独感を支えたのは、旧制水戸高時代から始めた俳句だった。「人間とは何かを見定めてみたい」。自分の生な姿をさらけ出した漂泊の俳人種田山頭火(たねだ・さんとうか)や小林一茶(こばやし・いっさ)にのめり込んだ。
 67年に社宅を出て埼玉県熊谷市に家族と居を構えた。その頃から「定住漂泊」を唱え始める。「人間にはさすらい感、漂泊の心性というものがある。世の中が豊かになればなるほど逆に、強くなる。山頭火のようにすべてを捨てた放浪ができる時代ではない。定住して漂泊心を温めながら、築き上げるというかたちもある」
    ◇
 反骨、豪放らい落な金子を愛するファンは多い。俳優の小沢昭一(おざわ・しょういち)(77)もそのひとり。「梅咲いて庭中に青鮫(あおざめ)が来ている」という句が、気に入っている。「なかなか『青鮫』なんて発想は出てきません。私なんか先生と違って、出たとこ勝負。日めくりカレンダーみたいな生き捨て人生ですから」。全国の放浪芸を集めて回った小沢と金子は30年以上の付き合いだ。
 金子には道楽者の血が流れる。実家は埼玉県秩父市で300年は続いた家柄だが、祖父は田舎歌舞伎の女形を演じ、開業医だった父は秩父音頭を復興させた。
 医院を継いだのは、弟の金子千侍(かねこ・せんじ)(78)だ。旧制新潟医専で脳外科を学び、秩父音頭の家元も継がされた。「兄をうらやましいと思ったことは一度もない」と涼やかな表情だ。43年前に貧しかった秩父に腰を据え、毎日7、8軒の往診をいまも続ける。
 金子にこんな句がある。「夏の山国母いてわれを与太と言う」。2年前に103歳で亡くなった母はるは、長男のくせに医業を継がず、俳句にうつつを抜かす金子が実家に顔を出すと、兜太とは呼ばず「与太が来た、バンザイ」と言った。金子の漂泊の思いを深いところで理解していたのは、はるだったのかもしれない。
(asahi.com「ニッポン人・脈・記」より)

兄は秩父を代表する俳人で現代俳句協会名誉会長、そして弟は秩父音頭家元で秩父郡市俳句連盟会長。
金子兜太と金子千侍 (左:弟、右:兄)
失礼ながら金子家を覗き見するようで、実に興味深いコラムでした。

PM5:00になるといよいよまつりの開始時間となり「秩父音頭まつり」のスタートは、この家元の碑のある場所から始まるのです。
正調踊り会場
このようなお囃子台の上で、かわるがわる唄を歌っていきます。
正調踊り会場
そして最初に登場するのが「町役場新撰組」と名付けられたチームです。
町役場新撰組
今年は15人から50人程度の大小77チーム1545人が参加しているそうで、近隣の長瀞町や寄居町のチーム多少あるのですが、ほとんどが地元のようです。
先頭にはご多分に漏れずゆるキャラ「み~な」の登場です。
ゆるキャラ「み~な」
文字通り、って言う名前ですね。
そしてここでは20~30mの距離を正調おどりと称して、「秩父音頭」のクラシック振り付けを踊るのです。
各チーム 各チーム
まさに老若男女、皆一様に楽しいでいる様子が見て取れます。
各チーム 各チーム

そしてここで踊り終わると約100m位先に移動し、同じように20~30mの距離を踊るのです。
創作踊り会場 創作踊り会場 創作踊り会場
こちらは創作踊りと言うことになっているようですが、私の見た中では全てクラシック踊りでしたね。
まあ、ここはご愛嬌です。

創作踊りが終ると、チームは町役場の広場に進みます。
町役場会場
広場では大きな櫓が設置されていて、その前にステージがしつられており、そのステージで踊りの採点がされるのです。
コンテスト
そしてコンテストの審査の終わったチームは、櫓の周りを踊りながら終了となります。
櫓と踊り
なかなか過酷な祭りかもしれませんが、当然、皆さん一様に楽しまれています。

夜の帳が降りてくると祭りも佳境を迎えます。
コンテスト 踊り コンテスト コンテスト
なんと言っても77チームですから、現在開始から2時間経過した時点でもコンテストが行われており、まだ先の正調踊り、創作踊りのステージで踊っているチームがあるくらいです。
創作踊り
終了はPM9:00だそうなので、まだこれから2時間祭りは続くのです。

昼からの散策もあったことから、今回はこれをもって帰宅します。
秩父の興味深い自然の織りなすジオサイトと、人の作り出したクリエイティビティアートが上手く絡み合った素敵な町でした。

2013.09.11記(完)

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