大宮盆栽だー!!

いきなりですが、先ずはこちらの写真から見ていただきましょう。
大宮盆栽だー!!
これ「盆栽だー!!」という地酒ならぬ“地サイダー”なのです。
こんなものが一体どこにあるといえば、埼玉県はさいたま市大宮区にある、文字通り“盆栽町”の町興しのために造られた製品なんです。
盆栽に興味のある方は盆栽町にある“盆栽村”はご存知だと思いますが、町全体が個人の盆栽園が集まっていて、その中心的シンボルとして平成22年3月28日に「さいたま市大宮盆栽美術館」が出来上がった町なのです。
この美術館がオープンした際に、折角オープンするのだから町興しが出来ないかと準備委員会が設置され、商工会議所のバックアップで先ずはPR活動が始まったのです。
そしてオープン後、早くもオープン1周年のPRを考えはじめたときに、地サイダーの存在を知り「盆栽」と「サイダー」を掛け合わせた“ボンサイダー”という語呂合わせのアイディアが浮かんだのです。 普通なら親父ギャグで終ってしまうオチなのですが、これを実現しようとするところが凄まじいところです。
大宮盆栽美術館周辺の5つの商店会で作る合同事業委員会に、大宮盆栽美術館、そしてオリジナルサイダーの製造を手がけている「さいたま市テクニカルブランド認証企業」の株式会社ハーベス、プロモーションを担う有限会社E-スタヂオが加わって、あっという間にプロジェクトが立ち上がったのです。
ある意味、瓢箪からコマ、て、感じでしょうか。
そのネーミングや味の選定ですが、それらはこちらのサイトを呼んでいただいたほうが判りやすいので掲出しておきます。

参考:【大宮盆栽だーオフィシャルサイト】http://www.omiyaboncider.info/boncider/

こうして造られた「大宮盆栽だー!!」ですが、今回ひょんなところで巡りあったのです。
冷蔵ケースに入った商品の中に「大宮盆栽だー!!」が並んでおり、しかも、水色とオレンジ色の2種類のラベルのもがあります。
大宮盆栽だー!! 大宮盆栽だー!!
これ味は一緒なのですが、水色のラベルはノーマルのラベルで、オレンジ色のラベルは“大宮共闘ラベル”といって、大宮アルディージャとのコラボレーションのラベルなのです。
しかもアルディージャオフィシャルスポンサーの「NACK5」をもじって“NACK5 GO”ということで7,955本の限定版なのだそうです。因みに6月5日現在、約4400本が出荷されたそうなので、残りは約3500本と言うことになります。
ということで、兎にも角にも1本ずつ購入してきたのです。

天才クライマーと紗瑠布

この「盆栽だー!!」を購入したところは、スーパーでも酒屋でも飲食店も無く、何とアンティークショップなのです。
お店の名前は「紗瑠布」で、14~5年前に営業を始められたようです。
紗瑠布
盆栽町の最寄り駅「大宮公園駅」から直ぐのところにあるお店で、国内外の有名ブランド家具やダイニング・ソファーなどのアウトレット商品がそろえられています。
紗瑠布 紗瑠布
私自身はこちらの方面にはトンと疎いのですが、10円の小物から人間国宝の作品まで取り扱っているというのですからびっくりです。 店内も結構広いわりには、所狭しと商品が並べられています。
紗瑠布 紗瑠布 紗瑠布
興味のある方には、どれもこれも宝物のように見えることでしょうが、私の目に映った宝物が「大宮盆栽だー」だったのが恥ずかしい限りです;;

さてこの場所に似使わない私がどうしてここを訪れたかと言うと、こちらの店長である“古沢店長”が、埼玉県の生んだ天才クライマー・加藤保男氏の実姉だからなのです。
古沢店長 古沢店長
大変素敵な笑顔が印象的な古沢店長が、以前、私のブログの【加藤保男】にご興味を持っていただき、さいたま市にあるタウン誌「アコレおおみや」の方が仲介を取っていただき、この日にお会いすることが出来たという経緯なのです。
埼玉県の土着民でありながら、埼玉県を殆ど知らないという恥ずかしい私でしたが「これではいかん!」とばかりに埼玉県の散策を始めて丸5年、そのうちの一篇が加藤保男氏に関するものだったのです。
当時は加藤氏のことは全く知りませんで、この散策を始めてから知ったという体たらくでしたが、今では立派に更正し埼玉県のことを少しはアピールできるようになったのです。
で、そんなわけで折角の機会とばかりにお邪魔した訳なのです。
敬意を表してご紹介しておきます。

参考;【「アコレおおみや」での“紗瑠布”】http://acore-omiya.net/?eid=38

この日は日曜日で雨模様の天気ながら、結構来店客も多く賑わっていました。
ご興味のあるかたは閑静な住宅街で、大宮公園や氷川神社の直ぐ近くで盆栽と一緒に楽しまれてはいかがでしょうかね。

天才クライマーと橋本龍太郎

ここで「盆栽だー」と「天才クライマー」が一応強引ながらも結びついたわけですが、「加藤保男」を知らない、って方もいらっしゃると思います。
私のブログを読んでいただけると多少は理解出るでしょうが、ここは本職の編集によるものの方がより判りやすいでしょう。
ということで、「アコレおおみや」でのE-Bookをご覧ください。

参考:【加藤保男の青春】http://acore-omiya.net/?eid=369

どうですか、壮絶な登山家人生ともいえそうなのですが、反面、そんな辛さを微塵も見せない強靭なメンタルが、まさにThat's so Coolでしょう。ブログにも書いたのですが、天は加藤氏に限っては二物も三物も与えたんだと。。。
加藤保男
古沢店長によれば、加藤氏は人を蹴落としたり、自己中心的でもなく、不思議と周りから持ち上げられる性格をもっていたとおっしゃられていました。
まさにこれこそが人徳といえるでしょう。常に出る杭は打たれる私と違って、、、否、最近は出る杭もありませんが;;
それは現在でも続いているようで、何をしているわけでも無いのですが、先の「アコレおおみや」にように様々な企業、団体、個人がそれぞれの立場で加藤氏を今だにクローズアップしていることからも伺えるのです。
加藤保男資料 加藤保男資料

したがって私なんぞが今更加藤氏を語ってもそれ程の説得力があるわけでもないのですが、ちょっと興味深いお話しをお聞きしたので、その件をさりげなく掘り下げてみたくなりました。
それは加藤氏がエベレスト初登頂した際の総隊長が元首相の故・橋本龍太郎だったことで、加藤氏が亡くなってから何かの会に保男氏のご両親が参加したときに、橋本氏が自らステージ上に椅子を設置しご両親を登壇させたとのエピソードだったのです。
橋本氏の略歴を見ますと、確かに麻布高校時代に山岳部に所属されていて、登山に明け暮れていたことからそれ程勉強もしなかったため成績は中位くらいだったと伝えられています。
橋本龍太郎
そしてこの麻布高校の山岳部のサイトに、橋本氏自身が寄稿したコラムが掲載されています。
一部分だけ引用させていただきます。

山と私 (1986) 橋本龍太郎(特別会員)
私がはじめてヒマラヤに近づいたのは昭和48年10月のことだった。
第二次RCCの計画したエベレスト南壁登山隊の総指揮という恰好良い資格をもらい、参加した時からである。当初は、何処かでエベレストを遠望しながら日本酒を飲みたい、という極単純な理由で御引き受けしたものが、思ったよりスラスラとクンブ氷河に入り、5350メートルのベースキャンプまで何という事もなく行けたものだから、以来すっかり調子づき、チャンスをとらえては海外での山行にもぐり込んで今日に至っている。
ただしこの時は、キャラバン中は我慢して手をつけずにかつぎ上げた日本酒を、ベースに入った夜早速飲んで完全に飲み過ぎ、翌日一杯猛烈な二目酔いに悩まされるという大ヘマもしでかした。
この時、南壁からの直登は成功せず、従来ルートからのモンスーン明けのエベレスト初登頂に目標を切り替え、これには成功したものの、帰途予定外のビバークを強いられ、加藤(保)君が手足の指を凍傷で失う事態をまねいた。(後略)

第2次RCCが登頂を果したのが1973(昭和48)年で、この当時橋本氏は既に国会議員であり、3年前の1970年には佐藤内閣での厚生政務次官で、5年後の1978年には厚生大臣となったことから、当時自民党内ではかなりの力を持っていたと見てよいでしょう。
そして橋本氏は日本山岳会の会員でもあったことから、このような総指揮という立場となったのでしょうね。
このような関係から亡くなられた後も、加藤氏のご家族を大切にされたのかもしれませんね。

更に保男氏が亡くなって3年後に刊行されたものに「加藤保男追想集」があります。500冊限定で印刷された本で800ページ以上もある大層な追悼本です。
ネットで探したところ、Amazomの中古で販売されているのですが、何と¥100,000もするので流石に購入は出来ませんね。
加藤保男追想集
更に調べると県立浦和図書館に蔵書しているとのことなので、早速閲覧しに行って見ました。
500冊のうちの268冊目の蔵書です。
加藤保男追想集
ここでも橋本氏の追悼文が寄せられていますので、あえて引用させていただきます。

遺 品
 「加藤なら絶対帰って来るさ」、「保坊の事だ、まだまだ大丈夫」、遭難の報道がなされて大分たってからもしつこく君の生還を信じ、人にもそう語っていた私が、ついに君の死という冷厳な事
実を認めさせられて、すでに相当の日数が過ぎた。
 貴方と初めて逢ったのは確か昭和四十七年、第二次RCC隊でポストモンスーンの初登頂をかねて南壁からのエベレスト初登攣をねらうべく準備中の頃だったと思う。ひょろ長い、おとなしい、目だけひどくキラキラした子だなと思った事を今、思い出している。
 昭和四十八年秋、そのキラキラした目をしたひょろ長い子は、石黒君と共にモンスーン明けのエベレストの頂上に立ち、その帰途のビバークで凍傷にやられ、手足の指を失うという大きな犠牲をはらう破目となった。
 この第二次RCC隊の総指揮だった私が、遅れてベースに入った時、すでに君は上にあがっていたから、山での貴方の本当の姿を私はついぞ知る機会がなかった。
 帰国後入院の長びいた事から今後再び君が山に行けるだろうかと心配していたある日、名古屋から湯浅さんが自分の事のように嬉しそうに「保、大丈夫です。又登り始めました」 と知らせてくれた電話を聞き、ホッとした思いだった。その後スイスからくれた君の絵葉書で完全復調を知り、彼奴一体どんな神経をしてるんだろうと首をひねったものだ。
 でも平地で逢うかぎり、君は初対面からちっとも変わらず、いつもひょろ長い、あまり口数の多くない青年だった。ただ、キラキラしていた目が逢う度にしだいに澄んだ、落ち着いたまなざしに変わっていくのに気づき、すばらしいなと思っていたし、次に蓬う時を楽しみにしていた。
 最後に君に逢ったのはチョモランマの後、大分たって吉田宏さんの御宅で行なわれたパーティだった。いろいろ聞きたがる私にてれくさそうに静かな声で答えてくれた君の最後の話が、君の最後のプロジェクトとなった真冬のエベレストへの挑戦の話だった。途中たまたま植村直己君の話になった時、貴方が「植村さんてスゴイですよ。だって自分なんか上に行くだけだけど、あの人上だけでなく横にも行くんですから」と語った言葉がひどくおかしかった。
 その植村君が北極から帰って釆て私にくれたサイン入りの写真が国会の私の部屋の壁にかざってある。これが彼のかたみになった。そのとなりに四十八年のエベレストの時、頂上でうつした石黒君の写真がある。シャッターをおしたのは君だ。だが君の写真はない。何度頼んでも恥ずかしがって君はつ いにくれなかった。
 ついに帰らぬ加藤保男君、君をしのぶ事のできる私のただ一つのものは、「あの石黒の写真、あの加藤保男がうつしたんだ」という言葉だけである。残念という以外何物もない。今はただ心から御冥福を祈るのみである。
橋本龍太郎

やはり天才クライマーも地上に降りるとシャイでナイーブな青年だったのかもしれません。
このような関係があったとはついぞ知らず、知ったからにはより英雄視してしまうミーハー的な性格はお許しいただき、純粋に郷土の偉人改めて偲ぶところです。

天才クライマーと家族

この追想集には130編以上の追悼文が掲載されているのですが、最後にご家族からの寄稿があります。
加藤家はご両親に加え、長女・治枝、長男・滝男、次女・智美、次男・保男、三女・直江の7人家族です。
七五三 (右から次女・(古沢)智美、保男、三女・直江)
それぞれに興味深い内容なのですが、全てを取り上げればきりもないので、あえて保男氏のシンボリックな部分を引用します。
それは長女の治枝さんの書かれた一説です。

弟に送る手紙 山中治枝
・・・・
やさしさは「よねちゃん」から(注・よねちゃんはお手伝いさん)
九州のおばさんからは躾
お母さんからは寛大さと大らかさ
お父さんからは思いやり
滝ちゃんからは勇気と歌
智美からは正義感
直江からは明るさ
私からは、なんだろう・・・

家族の温かさ、そして多くの家族の愛情に包まれて育った加藤氏が目に浮かんでくるようです。
日本の誇り、埼玉の偉人、そして家族の宝物と言うことでしょうかね。

最後に1枚のCDをいただきました。
岳人の歌
ソースは失念しましたが、“青葉城恋歌”で知られた「さとう宗幸」が唄った歌が収録されています。
加藤保男が帰らぬ人となった翌年に追悼を込めて歌われたものです。
1曲目は「岳人の歌」で、作詞・曲とも不祥ながらその世界では有名な曲なのだそうです。
2曲目は「想い出の赤いヤッケ」と言う曲で、“高石ともやとナターシャセブン”が唄った曲だったと記憶しています。
没後30年を経過した今でも、その思いは輝き続けているようです。

勝手気ままに折角の機会を後日談として記載させていただき、また改めて加藤保男氏に対する興味が湧いてきました。
現在、日本人のエベレスト最多登頂は村口徳行の7回だそうです。 それはそれで大変な偉業ともいえるでしょう。
しかしながら現代の体制・装備などを考えると決して簡単なことではないでしょうが、30~40年前とは登山自体も随分と進歩していることも要因としてあるのでしょう。
1970年5月11日、松浦 輝夫・植村 直己・平林 克敏の3名が日本人初登頂をしてから、1982年までの僅か12年間で加藤保男は3度も登頂を果たしたのです。しかも、秋季世界初、中国側から外国人初、そして冬季日本初という輝かしい三冠を達成しているのです。
この初登頂と三冠以外の残った“初”は、日本では女性世界初、北壁世界初、日本人無酸素初、冬季南西壁世界初、北東稜世界初しかないのですから、もし、、、があるとすればこのうちの幾つかは加藤保男が達成していたのかもしれません。
同年代の植村直己は冒険王と讃えられましたが、勝手に言わせていただければ、加藤保男はエベレストにこだわったクライマーと言えるのかもしれませんね。
エベレストの墓標
最後に単なるトーシロー“ブロガー”の私に、わざわざ貴重なお話、写真、CDなどなどご提供いただき感激にたえません。
改めて加藤保男氏のご冥福を祈るとともに、ご家族のご健康、ご隆盛を祈念し、この場をご提供いただいた古沢店長、並びに「アコレおおみや」の岩瀬様に感謝いたします。

※文中の引用文等に問題がありましたら対処いたしますので、ご連絡をお願い致します。

2013.09.12記
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