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「これっきり・・・」ではない横須賀ストーリーの第1章として、10月12日(土)に訪れた横須賀散策の模様です。
海と密接に関係のある街、横須賀は歴史と海軍の街として夙に有名ですが、特に今回の散策の後押しをしたのがイベントとポタリングでした。
「浦賀」と聞いて何を連想するかといえば、やはり“黒船”でしょう。
黒船来航時に対応に当たったのが浦賀奉行で、問答の末にとりあえず近隣の当時は小さな漁村であった久里浜に上陸させることになった故にペリー上陸の記念碑や記念館は久里浜にあるのですが、一般に来航地は浦賀沖とされているようです。
汐風を浴びながらの歴史散策もまた一興と言うことで、Part1では「浦賀」を散策します。

浦賀の玄関口:燈明堂

最初に訪れたのが海の町・浦賀を代表する「燈明堂」跡です。

現在は公園となっている燈明堂跡

現在は公園となっている燈明堂跡

突端が燈明崎

突端が燈明崎

浦賀港入口にあたる燈明崎の先端に江戸時代に建てられた和式灯台があったのです。
江戸時代の建立といわれると、幕末の外国船がやってくるようになったから建てられたものと思っていたのですが、江戸幕府が開かれた直後の1648年には造られたというのですから、あくまで浦賀港での船舶の安全を図るためのものだったようですね。

風情ある和式灯台

風情ある和式灯台

木造建築が自然に優しい

木造建築が自然に優しい

灯台としての役割を担った燈明堂は石垣を土台として二階建ての建物でした。階下は番人小屋で、階上は篝火ではなく灯明皿に菜種油で灯され、7.2kmにその光は達したそうです。
当初は勘定奉行の所管で、後に浦賀奉行管轄となり、明治になって神奈川府と変遷していったのです。
経費は1690(元禄3)年までは幕府が賄っていたのですが、以降は東浦賀の干鰯問屋が負担したのだそうですから、当時浦賀の町は漁業が盛んで繁栄していたのでしょう。


kanageohis1964様より大変貴重なご意見をいただきました。
本文では、この燈明堂は“灯明皿に菜種油で灯され”と記載したのですが、本来は干鰯問屋が干鰯を作った時に出て来る魚油が正しいのだそうです。

kanageohis1964様のサイトに丁寧に詳しく解説されていますので、是非ご一読下さい。
地誌のはざまに】 http://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-77.html#teisei

現地案内板 現地案内板

燈明堂の現地案内板の該当記述

この記述は現地の案内板よりの内容でしたが基本的に誤りがあったようですね。横須賀市教育委員会の記述でも鵜呑みにしてはいけないということでしょうね。
kanageohis1964様、ありがとうございました。また、今後ともよろしくお願いいたします。

2013年12月2日追記


日本初の洋式灯台である初代の観音崎灯台の模型

初代の観音崎灯台の模型

そして1853(嘉永6)年ペリー艦隊の来航時に艦隊の航行の目安となった燈明堂は開国後、皮肉なことに欧米各国の船が往来し始めると、この程度の灯台では非常に危険であると考えられ、1869(明治2)年に日本初の洋式灯台である観音崎灯台が建設されたことにより、1872(明治5)年にその使命を終えることになったのです。

旅歴メモ 慶応2年5月、幕府はイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの間に改税約定を結んだのですが、その第11条に灯明台を作らなければならないとうたわれており、その場所には、相模国三浦郡三崎及び観音崎が示されており、この要請により、幕府瓦解後の新政府である明治政府により観音崎灯台が建造されたのです。
廃止後も建物は残っていたのですが、1895(明治28)年以降崩壊し石垣のみが残されていたのです。
そして1968(昭和43)年に市の史跡とされ、1989(平成元)年に復元され、現在は公園として整備されているのです。

燈明堂パノラマ写真

燈明堂パノラマ写真

青い空に青い海、そして緑の樹木と自然に囲まれた中の和風の建物が、江戸時代を彷彿とさせてくれます。
歴史を偲ばせる供養塔

歴史を偲ばせる供養塔

更にもう一つ江戸時代の名残であるのが、ここの立てられている供養塔です。
これはかつてここが浦賀奉行所の処刑場だった場所で、当時は“首切場”であった事の名残なのです。
現在の浦賀の町並み

現在の浦賀の町並み

燈明崎海岸線

燈明崎海岸線

左手は現在の発展した浦賀の町並みを見ることができ、右手は綺麗な海岸線と自然の織りなす風景美を見ることができます
燈明堂周辺を描いた絵図

燈明堂周辺を描いた絵図

ただし、この風景美も歴史を持っていて、突き出た突端には幕末期に千代が崎台場が造られており、またこの背後の山にも平根山台場が造られていたそうです。

旅歴メモ この平根山台場は、1837(天保8)年に日本人漂流民を送り届けに来航したアメリカ商船モリソン号を、異国船打払令の基づいて砲撃した最初の台場で、後に「モリソン号事件」として有名となったところなのです。

観光としても歴史としても実に興味深い浦賀に相応しい場所なのです。

幕末期日本の番人:浦賀奉行所

次に訪れるのは、燈明堂の最初の所管であり、ペリー来航時の対応を取った「浦賀奉行所」です。
といっても現在に残っているわけでは無いのですが、その跡が残されているのです。
現在の西浦賀5丁目~6丁目にあたる、かつては「川間」と呼ばれた地に奉行所があったのです。
「川間」とは文字通り川と川の間にある土地といわれています。
この地域は、かつてあった大きな平作川と川のように見えた浦賀湾の入り江の間にある土地だったことに由来するのです。

そしてここに当時下田にあった「下田奉行所」が、船舶の航行の増加した浦賀に1720(享保5)年、移転してきたのです。
奉行所の主な業務は、船改め、海難救助ですが、幕末にかけてその重要度は増し、享保5年から慶応4年までの150年間に53人の奉行が務めたのだそうです。

奉行所跡の標柱

奉行所跡の標柱

残されている石垣

残されている石垣

ここが奉行所跡で、現在は堀の石垣と石橋の板が残されているだけです。
浦賀奉行所復元模型

浦賀奉行所復元模型

江戸時代の奉行というと町奉行、寺社奉行、勘定奉行などを連想しますが、この浦賀奉行は江戸以外の幕府直轄領(天領)のうちの重要な場所に置かれ、その土地の政務を司った“遠国奉行”の一つで、幕末時点では京都町奉行・大坂町奉行・駿府町奉行の各町奉行と、長崎奉行・伏見奉行・山田奉行・日光奉行・奈良奉行・堺奉行・佐渡奉行・浦賀奉行・下田奉行・新潟奉行・箱館奉行・神奈川奉行・兵庫奉行があったそうです。
建物の様子から見ても大変重要な施設だったと言うことなのです。

為朝神社境内

為朝神社境内

為朝神社社殿

為朝神社社殿

このように下田から移転した浦賀奉行所は、大変に忙しい時期を迎えるのですが、下田移転と共にやってきた文化が近くの「為朝神社」に残されている“虎踊”および“横須賀の虎踊”なのだそうです。
虎踊

虎踊

何故二つあるかといえば、前者は県指定重要無形民俗文化財で、後者は国選択無形民俗文財だからです。
このような踊りがこの為朝神社の特設舞台で踊られるのだそうです。

東福寺の山門 東福寺の本堂

東福寺の山門と本堂

また当時歴代の浦賀奉行が就任すると必ず参拝に訪れたのが「東福寺」で、ここには「海難除けの観音様」が祀られている為だったようです。
東福寺の観音堂

東福寺の観音堂

浦賀湾を望む

浦賀湾を望む

この観音様には江戸時代初めに西浦賀の淡路屋治兵衛の廻船が大しけに逢い難破しそうになった時、船頭等が観音様に無事を祈ると海は穏やかになり助かったと言う伝説があったのです。
それゆえに赴任時の恒例となったのでしょう。
浦賀にやって来た「下田奉行所」は様々な歴史をこの地に残して行ったようです。

浦賀奉行所の出先機関:船番所

当時の船番所跡

当時の船番所跡

浦賀奉行所が船舶や外国との政務を行うところであれば、当然実務を行う場所があるはずで、それが浦賀湾沿いにある「船番所」なのです。
勿論、名残は何もありませんが、現在の浦賀病院の辺りが“船番所跡”です。
当時の船番所の復元模型

当時の船番所の復元模型

異国船を取り巻く船番所の警備船

異国船を取り巻く船番所の警備船

船番所とは簡単に言えば海の関所で、江戸へ出入りする全ての船の乗組員と積荷の検査をする“船改め”を行い、江戸の経済を動かすとも言われた重要な出先機関だったのです。
しかしながら繁忙期は1日に50隻以上の船が出入りしていたため役人だけでは手が足りず、廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されたのだそうです。
この廻船問屋は下田の時代から委託されていて、奉行所の移転に伴い浦賀に来た通称・下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で行い、この業務に就いたときだけは足軽役となったことから名字を名乗ることが許されたのです。
更に外国船の対応も多忙を極め、慶応4年に奉行所がなくなっても“船改め”だけは継続し。1872(明治5)年まで続けられたそうです。

旅歴メモ 1720(享保5)年に伊豆下田にあった奉行所が浦賀に移転されたのは、江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定を図るためでした。
この船の検査を“船改め”といい、これを行ったのがこの船番所だったのです。と、同時に海の関所でもあるのですから積荷のほかにも「入り鉄砲に出女」の検査もし乗組員もチェックしたのです。
特に積荷の中でも生活必需品の米、塩、味噌から木綿や薪までの11品目は3ヶ月ごとに集計され、幕府の勘定奉行に提出されていたのですから、いかに物価の安定に気を配っていたかが伺えてきます。

ウッドデッキが気持ちよい港湾緑地

ウッドデッキが気持ちよい港湾緑地

現在、ここには船番所の名残は何もなく港湾緑地としてウッドデッキや四阿なども整備された実に気持ちの良い場所です。
歴史を偲ぶ陸軍桟橋

歴史を偲ぶ陸軍桟橋

そしてここから突き出たL字形の桟橋が「陸軍桟橋」と呼ばれた昭和10年代にできた歴史ある桟橋で、かつて船番所があった位ですから、船の停泊がし易いところだったという由縁かもしれません。
そして大戦後は、この桟橋に南方からの引揚者数十万人がここから上陸した思い出深い桟橋なのだそうです。

旅歴メモ
引揚記念の碑

引揚記念の碑

引揚者は56万人に及んだそうですが、特に終戦後の昭和21年に華南方面からの引揚船内でコレラが発生し、以降、続々と感染者を乗せた船が入港したため、久里浜に設けられた浦賀検疫所に直接上陸させたのだそうです。
そして昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖により、この地での引揚業務も終了したのです。

一つの桟橋にも江戸から昭和に続いた歴史が残っていたのです。

黒船来航:ペリー上陸

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」とは、緑茶の銘柄である「喜撰」の上物を意味する“上喜撰”の茶を4杯飲んだだけなのに、(カフェインの影響で)夜眠れなくなると言う表向きの意味と、わずが4杯(船を時に杯とも数えることから)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる、という意味をかけて“黒船来航”を揶揄している有名な狂歌です。

浦賀にやって来た黒船以前の外国船

浦賀にやって来た黒船以前の外国船

勿論、これが詠まれた黒船来航以前にも多くの外国船(出島でのオランダ船は除いて)が出没しているのです。

そして1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ艦船・サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号が通商要求に浦賀沖に黒船が現れたのです。

こちらが浦賀湾

そしてこちらが浦賀湾

黒船来航ジオラマ

黒船来航ジオラマ

こちらが久里浜湾

こちらが久里浜湾


黒船から見た情景で、左側が久里浜湾で右側が浦賀湾となるのです。当時は浦賀の方が栄えていたことから、基本的には黒船が現れたのが浦賀沖と言われるようになったのです。
ペリー乗艦の旗艦サスケハナ号

ペリー乗艦の旗艦サスケハナ号

久里浜上陸の絵

久里浜上陸の絵

こうして現れた船上のペリーに対して幕府はまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し来航の目的を探り、その信書を渡すと言う目的は把握したもののペリー側は与力の階級が低いと拒否し、検討を重ねた幕府は6月9日に久里浜上陸を許可し、浦賀奉行所の戸田・井上奉行が会見し国書を受け取り、返答を1年後として艦隊は嘉永6年6月12日に江戸を離れたのです。
黒船の江戸湾航行図

黒船の江戸湾航行図

勿論、6月3日~12日(旧暦7月8日~7月17日)の間艦隊はじっとしていたわけではなく、東京(江戸)湾を北上し威嚇していたのです。

旅歴メモ
中島三郎助

中島三郎助
《写真:川合章子の部屋より》

中島三郎助は1821(文永4)年浦賀奉行所与力・中島清司の長男として浦賀に生まれ、14歳の時父と同じ与力見習いとして奉行所に出仕し、ペリー来航時にこの黒船に乗り込んだ最初の日本人となったのです。

有名なペリーの写真

有名なペリーの写真

当時の人が描いたペリー

当時の人が描いたペリー

そして三郎助は艦上で折衝の任務に当たるのですが、それ以外にに三郎助は艦内をくまなく見て廻った様で、「ペリー日本遠征記」では“詮索好きで根ほり葉ほりして見て歩く好感の持てない人物”として描かれているそうです。
因みに三郎助は燈明堂の裏手の台場からモリソン号を砲撃した一人で、その砲撃されたモリソン号に乗っていたのがサミュエル・ウイリアムズで、何と三郎助がサスケハナ号に乗ったときに、このウィリアムズが通訳として乗っていたそうですから実に興味深い話です。

海国日本の誇り:中島三郎助

ペリー来航後は、台風一過ともならず日本には引き続き暗雲が立ち込めていました。

徳田屋跡 徳田屋跡

徳田屋跡

そのような日本を憂いた人たちが集ってきたのが、東浦賀にある「徳田屋」という旅館で、現在はその跡だけが記されています。
ここにはペリー来航時に黒船に乗ろうとした吉田松陰が二度目の宿泊をし、ここで佐久間象山と日本の行方に関して協議したと言う黒船縁の旅館なのです。

旅歴メモ
当時の徳田屋のイラスト

当時の徳田屋のイラスト
(横須賀市HPより)

そして正式に幕府の許可を得た旅籠(御用御宿)となったのは1811(文化8)年で、これが浦賀の旅館の始まりなのです。
投宿したのは吉田松蔭、佐久間象山、安藤広重、木戸孝允などを初めとして、幕末から明治維新の激動の中で数多くの武士、文化人などが訪れ、近代日本の黎明をむかえた貴重な宿でしたが、関東大震災で倒壊し姿を消したのです。

一方幕府も手をこまねいてはいません。
まずは江戸湾警備の増強のために台場造営を命じ、品川沖に11ヶ所の台場が造営されることになります。

国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」

国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」

また、大船建造の禁を解除し浦賀造船所を設置し軍艦の建造を始め、7ヶ月をかけて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造したのです。
このドックと軍艦建造の中心的存在が中島三郎助だったのです。
因みに、この鳳凰丸は日本船の船旗に定められた日の丸を初めて掲揚した船でもある歴史的な軍艦なのです。
更に中島三郎助は、勝海舟・榎本式揚らとともに、長崎の海軍伝習所へ派遣され海軍士官としての修行と造船術を身につけ咸臨丸の修理を行うなど、まさに海国日本の造船・操船の第一人者となっていたのです。

この中島三郎助と咸臨丸に関する碑が「愛宕山公園」に残されています。

判りにくい愛宕山公園入口

判りにくい愛宕山公園入口

公園の入り口には古い銘板に「浦賀園」と刻まれていて、ここが市内で一番古い公園であることを知らしめているかのようです。
咸臨丸出港の碑

咸臨丸出港の碑

帆をイメージしているのでしょうかモダンなデザインの石碑で、日米修好通商100年を記念して、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、縁の深いこの地に建てられたのだそうです。
勝海舟断食の地碑

勝海舟断食の地碑

因みに咸臨丸出港の際に、その航海の安全を祈願して東浦賀にある叶神社の奥の院で断食をしたといわれており、現在その奥の院の境内地にその記念碑が残っています。

旅歴メモ
咸臨丸

咸臨丸

アメリカ軍艦ポーハタン号の警固のため、勝麟太郎以下90余名の日本人乗組員で運航する咸臨丸は、1860(安政7)年1月13日、品川沖で錨をあげ、16日の夕刻に浦賀に入港しました。
それから二日間、食糧や燃料、その他の航海準備作業が行われ、1月19日午後3時30分浦賀湾を出帆したのです。
不安と荒天の中を39日間掛けて無事サンフランシスコ湾に入港し、故国の浦賀に帰港したのは1860(万延元)年5月5日だったそうです。

そして公園の一番奥にあるこの立派な碑が「中島三郎助招魂碑」です。

中島三郎助招魂碑

中島三郎助招魂碑

前述した通り浦賀奉行所与力として、そして日本海国の第一人者として横須賀の誇る偉人を二十三回忌に名誉と功績を末永く残すために建立されたのです。
その理由は、幕府瓦解後、三郎助は幕臣として徳川家に殉ぜんと長男、次男と共に榎本武揚と行動をともにし函館五稜郭にこもり新生政府を迎え撃った所謂賊軍となったことによるものなのです。
こうして1869(明治2)年5月享年49歳で二子とともに旭川の地に散ったのですが、そのときの遺書が残されています。
中島三郎助の遺書

中島三郎助の遺書

文面からは当時僅か2歳の三男・與曽八に短刀を贈って家族に別れを告げたのだそうです。
この與曽八、その後榎本武揚や同じ与力だった佐々倉桐太郎に養育され、家名も残し、自身も海軍機関中将となり、勲一等旭日大綬章を受賞しているのですから、充分父を超えるまでに成長したようです。

このように名誉と復権を果す招魂碑の除幕式の際に、かつての函館戦争の同士であった初代中央気象台長の荒井郁之助が“浦賀に造船所を造ったらどうか”と提唱し、同席した榎本武揚が即座に賛成し、地元の有力者に働きかけ1896(明治29)年「浦賀船渠株式会社」が創設されることになったのです。

旅歴メモ 浦賀での造船の歴史は、1853(嘉永6)年のペリー来航時に、大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置して鳳凰丸を建造し、1859(安政6)年には日本初のドライドックが完成して咸臨丸を整備したことに始まりました。
これらは中島三郎助が中心となって行ったことです。
しかしその後、小栗忠順らにより横須賀港に製鉄所を建設することが決定し(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所(初代)は1876(明治9)年に閉鎖されたのでした。

この後、浦賀の様子も一段と変貌していくのです。

浦賀の発展-1:浦賀ドック

2013年10月12日に浦賀に訪れなければならない理由がこの「産業遺産見学会」の開催です。

外からもちょっと見える遺構

外からもちょっと見える遺構

浦賀工場の壁画とクールな街灯

浦賀工場の壁画とクールな街灯

浦賀工場正門

浦賀工場正門


この施設は「住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場」で、創業以来“浦賀船渠株式会社”、“浦賀重工業株式会社”と社名を変えて来たのですが、一般には「浦賀ドック」の愛称で呼ばれているのです。

旅歴メモ 明治中頃の日本は日清戦争の影響などもあり、外国から多くの艦船を買い入れ世界的な海運国に発展しようとしていました。
一方、造船界では技術面や設備面で大きく立ち遅れており、その遅れをとり戻すため外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていたのです。
そのなかの一つとして、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、当時陸軍要塞砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得し、資本金100万円で明治30年に発足したのが「浦賀船渠株式会社」なのです。

集合場所は事務所の2階で、すでに多くの方が集っています。

集合場所の事務所集合場所の事務所

集合場所の事務所


集合場所の事務所にはかつて使用されていた工具の数々が展示されています。
工具の数々

工具の数々

驚くしかない化け物ノギス

驚くしかない化け物ノギス

中でも特筆は「ノギス」で、下にある一般的なノギスと比べると、まさに“化け物ノギス”です!!!!

30人ほどのグループに分かれて、ボランティアガイドとともにドックの見学の開始です。

風化していくジブクレーン

風化していくジブクレーン

歴史的な「浦賀船渠」の銘板

歴史的な「浦賀船渠」の銘板

ドックの両側に大きなクレーンが見えますが左側のクレーンは「ジブクレーン」というものだそうで、そこに付けられている銘板に「浦賀船渠」の名とともに昭和20年6月と記載されています。
およそ70年近く経過した歴史的クレーンと言っても過言では無いかもしれません。

正面から見たドックの光景で、その大きさと煉瓦のレトロ感に圧倒させそうな光景です。

浦賀ドックの光景 浦賀ドックの光景 浦賀ドックの光景

浦賀ドックの光景


この浦賀ドックは、現在、世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの一つという非常に貴重なドックなのだそうで、それ故のオーラを放っているのかもしれませんね。
その煉瓦積みは横・縦・横に煉瓦を並べて摘むフランス式が採用されています。
因みに綺麗に塗られた黄色い柵は、デザインとかではなく、時代経過と共にパイプが腐って倒れる可能性があるので、決して黄色いパイプ柵にもたれかかったり、掴まってはいけませんよ、と言う警告の意味で黄色く塗られているのだそうです。
ある意味これも遺構! です。

そして何気なく設置されている何とも素朴なこのフレームですが、実はこれがこのドックの命の綱のような大変重要な装置なんだそうです。

ドックで重要な原始的装置! ドックで重要な原始的装置!

ドックで重要な原始的装置!

いわゆる「水準器」(勝手に私が言っているだけで、正式名称は失念しました)でしょうか。
この浦賀ドックは“ドライドック”という乾式ドックで、水を満タンにしてから扉を開けて船を進入させ、水を抜いて船を固定して作業するという形式で、船を固定するときに必要なのがこの装置なのです。
これが盤木

これが盤木

船を固定するのが、底にある船台とその上に取り付けられた“盤木”の上に船の尖底を乗せるわけで、そのときドック内は海水で満たされているので船台が見えないわけですから、真直ぐ船体を向けさせるために、この水準器の縦の2本の糸に船体を真っ直ぐ合わせるのです。当然、この糸に対して真っ直ぐでない場合は、水を抜いた際に真っ直ぐ“盤木”の上に乗らないことになるわけです。
もし真直ぐ乗らない場合はやり直さなければなりませんが、注入するのに7時間、排水するのに5時間(という説明だったような記憶なのですが定かではありません)といういずれにしても大幅な時間のロスを起こすのですから、この作業は大変重要で、この作業に当たる担当者がドック作業者のトップなのだそうです。
ずっとこの方法だったそうですから、意外と原始的なのですね

右手にあるクレーンは「タワークレーン」といもので、こちらは昭和18年に製造されたものだそうなので、正しく70年経過したクレーンなのです。

こちらも風化していくタワークレーン こちらも風化していくタワークレーン こちらも風化していくタワークレーン

こちらも風化していくタワークレーン


右手に放置されているトラス状の構造物は、先のタワークレーンの頭に取り付けられていたものだそうです。
これだけ大きなものが着いていたのですから、いかに大がかりな修理だったかをうかがい知る事が出来ますね。

ドックの中間地点まで下りると、煉瓦壁が文字通り手に取るように見ることができます。

レンガ壁 盤木 レンガ壁

ドックのレンガ壁と盤木


そして“盤木”も目の前で見ることができ、より理解しやすくなるというものですが、船の大きさによってこの“盤木”の大きさを変えるのだそうです。
下から眺めるドックもまた歴史の重みを感じることが出来そうです。

上にあがってクレーンの先を見ると小高い丘を見ることができます。

削られた丘

削られた丘

この丘はかつてこのドックの半分くらいまであった丘だそうで、ドック建設のために削り取られてしまった名残なのだそうです。
意外な歴史が残されているものです。

ここからが船尾というか港との境界部分です。

浦賀ドック開閉扉 浦賀ドック開閉扉 浦賀ドック開閉扉

浦賀ドック開閉扉


左側がドック、右側が浦賀湾となり、緑色の通路の部分が扉となっており、ここが開閉して船の出入りを行うのです。
しかしながら上下に動いて、といった近代的なものではなく、扉が逆L字型になっていることから頭の重みで浦賀湾側に扉が倒れるという開け方なのです。
扉を閉めるウィンチ

扉を閉めるウィンチ

では閉めるときは一体どうするのかと言えば、両側にあるウィンチで持ち上げるという、これも実に原始的でありながら、何となく親しみが持てる扉なのです。
後にもあった水準器

後にもあった水準器

扉の中央には例の水準器が設置されていますね。

ここからドック内を見るとドックの下の側面に穴が二つありますが、この穴が海水を注入する穴なのです。

海水注入口 海水注入口

海水注入口


前述したように注入するのにも何時間もかかるのですから、一層のこと扉を開けて注入したほうが早いのではないかと思いますが、よくよく考えれば、まさに洪水状況ですから問題大いにありですね。
海水排水パイプ 海水排水パイプ

海水排水パイプ

そしてその先の右手にある二本の太いパイプが排出水のが通るパイプなのだそうです。
現在はボロボロですが、それが返って歴史を物語っているようです。

開閉扉の先の正面の岸は同じように煉瓦で造られていて、いわゆるここがドックの敷地(境界内)ということになるようです。

新造船用ドックと水路 新造船用ドックと水路

新造船用ドックと水路

この水路は1.5kmあるそうで、これだけ長い水路も珍しいのだそうです。
そしてこの水路の元には新造船のドックがかつてあり、進水した艦船がこの水路を誇らしげに走っていったのだそうです。

旅歴メモ 艦艇建造は日露戦争時の横須賀工廠からの艦載水雷艇の受注に始まり、1907(明治40)年に初めて駆逐艦「長月」を建造しました。その後も小艦艇建造を中心的業務とし、特に駆逐艦建造では有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門で「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれ、軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻(+2隻未完)を建造したのです。
また、1924(大正13))年に国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」、「飛鸞丸」を竣工させ、その後も多くの青函連絡船を浦賀で建造することとなったのです。
戦後も自衛艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われました。
しかし住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移り、2003(平成15)年3月12日、浦賀で最後の建造となる護衛艦「たかなみ」が竣工してその幕を閉じたのです。

最後は附属している工場跡を見学です。

ポンプ室

ポンプ室

ポンプ室
ドックの水を排水するためのポンプ所です。建物の中にあるからでしょうか、それ程古い感じはしませんね。
こちらは工場ですが、工具や備品が無いのでただただだだっ広い工場建屋です。
とにかく広い工場内 とにかく広い工場内

とにかく広い工場内

午後から行われるシンポジウム会場

午後から行われるシンポジウム会場


僅かながら残されている機械はあまり見たことが無い大型の旋盤でした。全てのスケールが違うのでしょうね。
大きな旋盤

大きな旋盤

寂しげなトロッコ

寂しげなトロッコ


何となく廃墟好きな方には絶好のポイントかもしれません。
あまり見ることの無いリベット打ち

今では見かけないリベット打ち

特にリベット打ちの柱などは戦前のイメージが色濃く残る構造物といえそうです。
こうしてドックを一周してきました

こうしてドックを一周してきました

こうして最後はジブクレーンを抜けて見学会は終了となったのです。

浦賀の発展-2:川間ドック

ここでもう一つ注目すべき場所があります。
それは前述した世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのもう一つのドックが、浦賀ドックの近くにあるということです。
つまり世界で4ヶ所のうち2ヶ所が日本、更にこの浦賀にあるということなのですね。
丁度、燈明堂と陸軍桟橋の中間辺りの“シティマリーナヴェラシス”というヨットハーバーの中に残されている「川間ドック」です。

浦賀らしいモニュメント

浦賀らしいモニュメント

ヨット修理庫

ヨット修理庫

駐車場の右手がドック跡

駐車場の右手がドック跡


聞いたことのある名称ですが、浦賀奉行所跡辺りのエリアが“川間”と呼ばれていましたが、そのより浦賀湾に近い場所となるのです。 正門から入って右手奥の駐車場の先がその「川間ドック」の遺構です。
川間ドック 川間ドック 川間ドック

川間ドック


基本的にはドライドックなのですが、現在は常に海水で満たされている状態で、浦賀ドックとの使用前、使用中のような光景が微笑ましいですね。

旅歴メモ
昭和30年頃の川間分工場

昭和30年頃の川間分工場

1897年浦賀船渠が設立された2年前の1895(明治28)年に東京石川島造船所が大型船の建造修理のため、当時、取締役会長であった渋沢栄一の提案により浦賀に分工場の建設開始し、1897年に東京石川島造船所浦賀分工場として創業されたのが始まりなのです。
同時期に同じ場所で建設された2社の間ですから、当然、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられ、その結果はダンピングを生み、両社の経営を悪化させたのです。
これでは共倒れという危機から、この石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収し自社工場とすることで決着したのです。
その後、順調な経営を進めてきたのですが、1978(昭和53)年には新造船から撤退し橋梁専門工場となり、浦賀ドックより一足早い1984(昭和59)年に閉鎖され、現在のマリーナとなったのです。

川間ドックの工場跡

川間ドックの工場跡

燈明堂から見えた海岸沿いの石垣は、川間ドックの工場跡だったのかもしれません。
いずれにしても浦賀の歴史に残る遺構なのですが、世界に4ヶ所しかない貴重な遺構が今のところ史跡や文化財に指定されていませんので、今度どのようなことになっていくのか注目すべきところといえそうです。

三浦半島の中では比較的早くから発展した地域で、戦国時代には浦賀城が築城されて後北条氏の水軍の拠点の一つとなっていました。
江戸時代には廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ね、浦賀奉行所が置かれてからは江戸湾の要衝となり隆盛を極めました。
そして黒船来航以来は、造船の街として更なる発展を遂げてきたのです。
こうした発展の要因が2003(平成15)年に終ってしまった浦賀の今後が非常に気になる散策でしたが、歴史的には非常に興味をひかれる町でした。

2013.10.17記
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コメント

  1. pansy | -

    こんにちわ!


    浦賀ドックは知っていましたが、川間ドックの存在は初めてでした。
    歴史的遺構が残されていたんですね。
    市内最古の愛宕山公園入口の時代を感じるアーチ、クラシックですね。

    浦賀は近いですが以外に出かけない場所でして、こんなに見どころが多いだけでなく、薄荷脳70さんの掘り下げたレポートを参考に、機会をみて是非訪れて見ようと思います。

    ( 11:31 )

  2. 薄荷脳70 | -

    Re: こんにちわ!

    pansyさん、ありがとうございます。
    開国、そして海軍の街としてロマン溢れる地でした。
    めったにいけないところなので、余計に色々見てみようという貧乏性が出てしまうのですね;;
    でもやはりとても素敵なところでした。
    何と言っても海があるだけでも素敵なんですから^^

    ( 07:21 )

  3. こんにちは。

    私もネットを検索して出て来た記述に引っかかってしまったのですが、燈明台で灯していたのは菜種油ではなく、干鰯問屋が干鰯を作った時に出て来る魚油です。以下ご参照下さい。

    http://kanageohis1964.blog.fc2.com/blog-entry-77.html#teisei

    ( 12:19 )

  4. 薄荷脳70 | -

    Re: タイトルなし

    kanageohis1964さん、ありがとうございます。
    現地の案内板の通りだったのですが、何でも鵜呑みにするわけにはいかない、ということですね。
    早速、本文で修正させていただきます。
    大変貴重なご意見ありがとうございました^^

    ( 20:10 )

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