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日米親善ベース歴史ツアー -下-

たっぷりとり過ぎた昼食が終わり、午後のツアーの開始となります。
フードコートの近くの岸壁付近の四阿に集合と言うことで、続々参加者たちが戻ってきました。

続々・FENCEの向こうのアメリカ

ここで残念なことに、何とか踏み止まっていた曇天からポツリ、ポツリと雨が落ちだしました。
雨だけは避けたかったのですが、天気を恨んでもしかたありません。先ずは傘を持っていない事態にどう対処するかを考えねばなりませんね。

コサノバーク(コミュニケーションタイム)・終戦時米軍上陸地点

フードコートのある一画の公園が「コサノパーク」です。

コサノパークと猿島

コサノパークと猿島

コサノパークから見た三笠公園

コサノパークから見た三笠公園

元横須賀商工会議所会頭の小佐野氏が、基地と横須賀市の友好関係に尽力したことを顕彰してこの名前が付けられたのだそうです。
ここからは「猿島」や「記念艦三笠」のある三笠公園などを見ることができますが、今日はかなり霞んでいます。

コミュニケーションタイム

コミュニケーションタイム

ここにある四阿で30分ばかりのコミュニケーションタイムとして、同道してくれた水兵の方との質疑応答となります。
皆さんお腹も一杯で食後の一服時間ですので、あまり活発な質疑応答ではなかったのですが、それなりの時間を楽しみました。

本家本元の「セーラー服」と連合軍上陸地点

本家本元の「セーラー服」と連合軍上陸地点

コミュニケーションタイムも終了し再びツアーにでますが、ふと気がついたのが(実に遅いが!)同道していただいている水兵の方が着ているのが文字通りセーラー服だってことです。
我々オジサン・オバサン世代ではこのセーラー服を見て思い出すのは“ポパイ”で、現代ではセーラー服といえばコスプレというイメージになっているようで、ジェネレーションによってイメージするものの格差は大きいようです。
そして今歩いているピンク色の道の部分が、終戦時に米軍が上陸してきたエリアなのだそうです。

旅歴メモ -占領下の横須賀- 1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎え、半月後の8月30日にアメリカ海兵隊の横須賀上陸が開始され、横須賀は進駐軍の占領下に置かれ、軍用財産は一時全て米軍に接収されたのですが、1945(昭和20)年12月末までに40ヶ所以上の施設が返還されたそうです。
米軍は1952(昭和27)年の対日講和条約が発効される迄、バッシャー少将以下6人の司令官が就任しましたが、なかでも1946年4月に着任したデッカー大佐は4年2ヶ月あまりも在任し「デッカー時代」と呼ばれる一時期を築いた代表的な司令官だったそうです。
そして、1950(昭和25)年旧軍港都市転換法の施行により旧軍用財産は横須賀市の基本財産として再生されることとなり、市の発展に大きく寄与するようになったのです。
将校クラブ・海軍病院

ここからは横道に入り住宅街を抜けます。

Susquenhanna Drive.

「ONE WAY」がオシャレ!?

途中の通りには「Susquenhanna Drive.」の標識があります。
あの横須賀縁の黒船のペリーが乗艦してきた旗艦「サスケハナ号」を由来としたものです。

将校クラブ

落ち着いた雰囲気の将校クラブ

この通りを抜けると落ち着いた庭園の中に「将校クラブ」があります。
エントランス近くにあった下士官クラブの上級である「士官クラブ」で、尉官以上の佐官、将官たちが利用できる施設ですから、やはりリッチな雰囲気なんでしょうか。
それにしてもここでは当たり前ですが、まさしく縦社会ですね。

この「将校クラブ」の周辺には幾つかの石碑などが残されています。

郷愁をさそう方位盤

郷愁をさそう方位盤

こちらに埋め込まれているのは「方位盤」で、旧日本海軍時代に日の出や郷里のある都市などの方角を知るために設置されたものだそうです。
軍人達は皇居のある東に向かって拝礼し、郷里に向かって黙礼して家族への思いを馳せていたようです。

皇太后陛下行啓記念の碑

皇太后陛下行啓記念の碑

紀元2600年記念庭園の石碑

紀元2600年記念庭園の石碑

皇太后とは昭和天皇の母節子様のことで、今上天皇から言えば祖母にあたる方で、横須賀訪問を記念して1941年に建てられたものだそうです。
その隣には「紀元2600年記念庭園の石碑」がありますが、この紀元2600年は戦後、オフィシャルでは消滅したことですから戦後の時代の人間にとっては全く馴染みのないものです。

旅歴メモ -紀元二千六百年記念行事- 「紀元2600年」とは1940(昭和15)年が、神武天皇が紀元前660年に即位してから2600年にあたることに由来しています。そしてこの紀元2600年を祝して、この年には多くの記念行事が行われたのです。
式典会場

1940年11月11日の式典会場

その中のメインとなるのが紀元二千六百年記念行事で、11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催され、14日まで関連行事が繰り広げられたのです。
これは当時日中戦争の長期化とそれに伴う国民の疲弊を、様々な祭りや行事によって晴らそうとし、更に「神国日本」の国体観念を徹底させようという狙いもあったようです。
特に国威高揚、国力の対外的誇示の機会でもある国際的イベントもこの年に合わせて開催しようと日本政府により計画されていて、第12回夏季オリンピック東京大会、第5回冬季オリンピック札幌大会、紀元2600年記念日本万国博覧会が既に決定していたのですが、日中戦争の長期化により、結局いずれも実現はしなかったのです。

米海軍病院

ナチュラルで落ち着いた感じの米海軍病院

将校クラブの斜向かいには落ち着いたブラウンとホワイトのツートンカラーの建物がありますが、これは「米海軍病院」です。
日本の研修医が戦後から働いていて、多くの著名な医師を輩出しているのだそうです。しかしながら病院自体は専門的な治療はしないようで、あくまでベースの住民の健康管理のための総合病院と考えればよいのでしょう。

皇后陛下行啓の碑・旧海軍病臨門柱

皇后陛下行啓の碑

皇后陛下行啓の碑

再び行啓の碑ですが、こちらは「皇后陛下行啓の碑」です。
昭和天皇の皇后である香淳皇后が、昭和12年11月に横須賀海軍病院に入院している傷病兵を見舞うために行啓されたことを記念して昭和13年11月に建立されたものです。

旅歴メモ -行啓- 意外と聞きなれない「行啓」とは、皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されることで、天皇が外出することは「行幸」といいます。天皇の外出が2ヶ所以上の場合は「巡幸」で、天皇・皇后が一緒に外出される場合は「行幸啓」(文字通りですね)と言うのです。
それでは上記以外の皇室が外出する場合は単なる「お出かけ」ってことになるわけは無く「お成り」と言うのだそうです。
因みに帰ることは、それぞれ「還幸」「還幸啓」「還啓」「ご帰還」と呼ぶのです。

元奉安殿

抜け殻のような元奉安殿

皇后陛下行啓の碑の隣には小さな社がありますが、これは「元・奉安殿」だったところです。
奉安殿とは戦前の日本において天皇と皇后の写真と教育勅語を納めた建物で、戦前の小学校などにもあったようです。
流石に現在は何もありませんが、建物だけは残されていると言う扱いに歴史・文化的意味合いを見出すアメリカの心遣いが見事です。

その左手に白亜の建物がありますが、こちらは「旧・横須賀海軍病院」です。

旧・横須賀海軍病院

旧・横須賀海軍病院

現在も「U.S.Navil Hospital Yokosuka Japan」となっているので、主の代わった横須賀海軍病院のままとなります。
旧横須賀海軍病院は、明治13年に開庁した軍港内初の海軍病院でした。当時、診療・入院できるのは海軍軍人、及び軍属に限られ、公務であれば無料で治療を受けられたそうです。
戦後は米海軍に接収され建物はほとんど破却されましたが、現在、庁舎、兵舎、治療品倉庫などのほか門柱や壁、防空壕などの遺構が残されていて、庁舎、兵舎は現在も病舎として使用されているのです。

旅歴メモ -横須賀海軍病院- 横須賀開庁以降、明治22年・呉、佐世保が開庁し、明治34年に舞鶴に海軍病院がそれぞれ開庁されたのです。
病院の性格上、診療科目は外科系、内科系のほかは、伝染病科、脳神経病科やリハビリ等で、産婦人科や小児科はありませんので、軍人・軍属以外の海軍工廠職員や家族の診療は海軍共済病院、海軍の下士官及びその家族の診療には海仁会病院があったそうです。
そして大正5年当時では東洋一の規模といわれ、海軍病院中最高の設備と規模を有しており、横浜分院、長浜分院、湯河原分院、熱海分院、川奈分院を持っていたのです。

当時のままの銘板

当時のままの銘板(門柱の上の灯籠は後付けです)

その銘板の写真を撮る光景を撮る

その銘板の写真を撮る光景を撮る

そして現在も残る当時の門柱と塀ですが、門柱には当時のままの銘板が掲げられ、多くの方が写真に残していました。

こうしていよいよツアーも最後の旧鎮守府に向かうのですが、その途中に「Fluckey Holl」と記載された建物があります。

Fluckey Holl Fluckey Holl

Fluckey Holl

その横には「COMMANDER SUBMARINE GROUP SEVEN」と書かれた看板があり、ここは「第74任務部隊」の司令部なのだそうです。
この第74任務部隊とは第7潜水艦群で編成する部隊で、グアムを母港とする第7艦隊潜水艦部隊で構成れており、平たく言えば極東における潜水艦の司令部といえるのです。

このベースには、1.在日米海軍司令部(米海軍横須賀基地司令部)、2.米海軍第7艦隊司令部 3.第70任務部隊司令部、4.第74任務部隊司令部の4つの司令部があるのだそうです。
1は文字通り(US Naval Force Japan)の司令部で同時に米海軍横須賀基地司令部も含まれ、2はこのベースを母港としている第7艦隊(U.S. Seventh Fleet)の司令部で、旗艦「ブルーリッジ」内に置かれています。3は第7艦隊戦闘部隊 (Battle Force, Seventh Fleet)の司令部で空母「ジョージ・ワシントン」内に設置されており、いかにベースが戦略的に重要な位置づけなのかがよくわかるでしょう。
因みに在日米軍の司令部は横田基地に置かれています。

旅歴メモ -Fluckey Holl-
ユージーン・ベネット・フラッキー

ユージーン・ベネット・フラッキー

この「Fluckey Holl」とは、ユージーン・ベネット・フラッキー(Eugene Bennett Fluckey)を顕彰して付けたネーミングです。
このフラッキーは軍人として多大な功績を残したそうで、潜水艦「バーブ」艦長として数々の戦功を挙げ、戦闘機なら撃墜王ですが、まさに潜水艦の撃沈王とでも言う人なのです。
その功績は受賞に現され、名誉勲章と海軍十字章、金星章(英語版)3個、海軍殊勲部隊章リボンおよび海軍部隊表彰リボン、アメリカ防衛従軍章とフリート・クラスプ、太平洋戦線従軍章、アメリカ本土防衛従軍章、第二次世界大戦勝利記章および国土防衛従軍章というもう訳のわからないほど受賞しているのです。
その内容は名誉勲章の受章理由で理解できます。

潜水艦「バーブ」

潜水艦バーブ

バーブ乗員とバトルフラッグ

バーブ乗員とバトルフラッグ

彼の指揮する「バーブ」は1944年12月19日から1945年2月15日にかけての11回目の哨戒で作戦した中国東海岸部において、落命の可能性とアメリカ軍軍人としての義務の限度を乗り越えて大胆かつ勇敢な攻撃を行った。1月8日、フラッキー中佐は2時間の夜間戦闘で敵の弾薬搭載船などを撃沈したあと、1月25日には大胆にもナンカン・チャンの港沖に集まる30隻の敵船の真っ只中に乗り入れるという偉業を成し遂げた。この海域を抜けるには1時間は見積もる必要があり、また暗礁や機雷の存在も考えられたが、彼は「戦闘配置!魚雷発射用意!」の号令を出して、水深9メートルの海域で2.7キロの範囲にいた敵船に対して艦首発射管の魚雷を発射した。すぐさま艦尾発射管の魚雷も発射し、攻撃の結果、8本の魚雷のうち6本が命中し、弾薬船は周囲をも巻き込むほどの大爆発を起こした。「バーブ」は高速で危険水域を抜け出し、4日後には安全水域に艦を移動させた。英雄的な戦闘行為の締めくくりを、日本の大型貨物船撃沈で締めくくった。アメリカ海軍はフラッキー中佐と彼の勇敢な部下に対し、ここに最高の栄誉を与えるものである。

惜しくも2007年に亡くなられ、最終階級は少将だったそうです。

ここからこのツアーのもう一つのメインである旧鎮守府に向かいます。

横須賀鎮守府跡・基地内労働者感謝の碑

最後は現在の在日米海軍司令部で、かつての日本海軍の横須賀鎮守府であった建物を見学です。

旧横須賀鎮守府

旧横須賀鎮守府

ツートンカラーが美しい三階建てのどっしりとした建物が「旧横須賀鎮守府」で、現在の米海軍司令部です。

旅歴メモ -横須賀鎮守府-

明治17年(1884)、東海鎮守府が横浜から横須賀に移され、横須賀鎮守府と改称されました。初代の長官は、佐賀出身の中牟田倉之助です。鏡守府とは、各海軍区の警備・防御・所管の出征準備に関することをつかさどり、所属部隊を指揮監督した海軍の機関で、横須賀のあと、呉、佐世保、舞鶴に設置されます。
明治23年(1890)に完成した当初の庁舎は、関東大震災で崩壊し、大正15年(1926)10月に再建されました。戦後は、そのまま在日米海軍司令部として使用されています。
(パンフレットより)

初代の鎮守府庁舎

初代の鎮守府庁舎(パンフレットより)

鎮守府の横須賀移転当時は横須賀造船所の官舎を間借りしたのですが、その後、手狭と老朽化、そして日本の威信の問題で1887(明治20)年に庁舎建設が開始され、初代庁舎は1890(明治23)年竣工しました。
煉瓦造りの二階建てで、建物の中央部には車寄せを設け、中央部の軒上にはペディメントを設け大きく菊花紋章をあしらい、両翼には寄棟屋根を載せ、胴蛇腹を張り出させた、全体のイメージとしてシンメトリーという西洋の過去の建築様式を復古した“歴史主義建築”と呼ばれるものだったのです。

二代目鎮守府庁舎

二代目鎮守府庁舎

しかしながらこの初代庁舎も関東大震災で倒壊したため、横須賀鎮守府の二代目庁舎は柔構造を基本とした耐震設計が取り入れられ、防火対策も取られた建築がなされたのでした。
鉄骨造の三階建て総建坪675坪、総工費は237276円で根は無装飾の陸屋根であり、全体として箱型をした建物で歴史主義建築であった初代の庁舎とは対照的に近代的なデザインの建築となって1926(大正15)年に竣工されたのです。

旅歴メモ -米内光政と横須賀鎮守府-
米内が執務を取っていた2階部分 米内光政

米内が執務を取っていた2階部分と米内光政

2階の一番右の辺りで1935年12月~1936年11月の1年間、後の海軍大将で総理大臣となる米内光政が横須賀鎮守府司令長官として執務をとっていたそうです。
この司令長官時の1936年2月26日に二・二六事件が勃発し、この日、米内は新橋の待合茶屋に泊まっていたのです。事件のことは知らずに朝の始発電車で横須賀に帰ったのですが、帰った直後に横須賀線がストップしたため、間一髪のところで、事件対応に追われる横須賀鎮守府に責任者不在という事態は免れたのだそうです。
鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧の方向で動いたのです。
その後の人事異動で米内は連合艦隊に転出し、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に任ぜられたそうです。

在日米海軍司令部

在日米海軍司令部

こうした歴史をもつ横須賀鎮守府ですが、終戦後は一旦連合軍に接収され、1952(昭和27)年サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効したことにより連合国の占領から在日米軍としてアメリカ軍が駐留することになり、かつての鎮守府庁舎は在日米海軍司令部庁舎として現在に至っているのです。
そして在日米海軍司令部庁舎となっていこう様々な改築が行われたようです詳細は不明なようです。ただし、最も大きな改変は三階部分の窓のうち、八ヶ所が塞がれてタイル壁になっているのですが、これは情報を取り扱う部署がある三階部分について、1965(昭和40)年頃、窓を塞ぐようにとの要請がアメリカ本国からあったためだそうです。

こうして初代・二代目・現在という三代にわたる鎮守府庁舎の歴史を見てきましたが、この隣にもう一つ講堂のような建物が渡り廊下で繋がっています。

米海軍横須賀基地司令部庁舎 米海軍横須賀基地司令部

米海軍横須賀基地司令部庁舎

こちらは現在「米海軍横須賀基地司令部」庁舎となっています。
ここは元々鉄骨平屋建ての横須賀鎮守府会議所の建設が予定されていたのですが、鎮守府庁舎3階にあった人事部と艦船部が手狭となってきたため、平屋建ての計画を二階建てへと変更し、一階を艦船部庁舎と会議所附属室とする案が決定され、1934(昭和9)年まで工事予算が組まれ建築が進められたのだそうです。

横須賀海軍艦船部

横須賀海軍艦船部

横須賀鎮守府会議所

横須賀鎮守府会議所

その名残がエントランスの表札です。
現在、1階は米海軍横須賀基地司令部で、2階は多目的ホールとして利用されているのです。
ネイビーらしいモニュメント

ネイビーらしいモニュメント

エントランス横にはやはり錨のモニュメントが置かれているのはお約束でしょうか。

1階の通路に入館します。

エントランス左右の展示コーナー エントランス左右の展示コーナー

エントランス左右の展示コーナー

歴史を振り返る写真がたくさん展示されています。
またベースのジオラマや、よく判りませんが機材なども展示されています。

通路の様々な展示物 通路の様々な展示物 通路の様々な展示物

通路の様々な展示物


通路の奥にはオバマ大統領を頂点とした軍の組織や、トロフィーなどの記念物、そしてシンボルである旗などが置かれています。
ちょとした歴史を垣間見ることが出来ました。

基地内労働者感謝の碑

基地内労働者感謝の碑

こうして鎮守府跡を見学して、今朝入ってきたゲート付近に戻るとそこに「基地内労働者感謝の碑」があり、ここで解散となったのです。

最後の記念撮影

最後の記念撮影

最後は最初から最後まで同道していただいた二人の水兵の方と記念撮影してベースを後にしました。

この後はどぶ板通りのバザールを見る予定としていたのですが、雨脚も若干強くなり既に多くのバザールの出店もほぼ店じまいと言うことで、本日の予定はこれにて全て終了としたのです。

横須賀のベースを通して実に様々な日米の歴史と文化を見ることができました。
特にベース内の見学と言う貴重な体験が出来たのも、このツアーに参加できたおかげです。改めて横須賀市、そして関係諸氏に感謝いたします。
10月、11月の2ヶ月に渡って散策した横須賀市の3部作とも言うべき歴史ツアーをもって、一旦横須賀散策は終了です。
まだまだ、見たいところ、行きたい所は沢山あり、またジョージ・ワシントンが見られなかったり、ネイビーバーガーが食べられなかったという心残りもあることから、また来年、温かくなったら出かけてみるつもりです。

2013.11.17記(完)

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コメント

  1. kshun10 | -

    横須賀、勉強になりました。
    ずいぶん前に訪れたきりですが、また行ってみる価値ありそうです。
    タイトル「FENCEの向こうのアメリカ」は柳ジョージの曲からですか?好きな曲です

    ( 21:04 )

  2. 薄荷脳70 | -

    kshun10さん、ありがとうございます。

    kshun10さん、ありがとうございます。
    私ははじめてでしたが、確かにまた行きたくなる魅力がありますね。温かくなったらまた行ってみるつもりです^^
    おっしゃるとおり「FENCEの向こうのアメリカ」は柳ジョージです。一時期レイニーウッドに嵌ったことがありまして。本来は本牧なんですが、イメージが合いそうでしたので

    ( 04:50 )

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